大富豪と大貧民。王様と奴隷。
昔、子供が小さい頃、トランプ遊びの一つに「大貧民」とかいうのがありました。
よくは覚えていませんが、大貧民、貧民、平民、富豪、大富豪とかいう身分に分かれてその身分が、行ったり来たりして大興奮しながら、やっていた記憶があります。
奴隷、平民、貴族、王様とか身分の名前を変えている場合もあったような気がしますが、どうだったでしょう?
二代目王様は家庭連合での一般食口を奴隷(状態)と言われました。そして天一国では一般市民が王様になると言われました。奴隷であったとまでの自覚は私にはありませんでした。でも言われてよく考えてみればそうだったのかと思えなくもありません。
今度は王様になるというのもなかなか難しいというか想像しにくいことではないでしょうか?
本然のアダム、とエバに戻るというわけですから言葉としてはわかっても王様という表現がぴったり来ないのではないかと思えてしまいます。
王様はもちろん権力の王者でも富の王様でも知識の王でもなく、愛の王様ということですが、実体がそうなっているという実感がなかなか湧きません。
まずは神様の心情を中心として愛がどれくらい日々成長しているのかが、問題です。
そしてイエス様が示された十字架上の愛、そして再臨主として来られた真のお父様の心情の十字架が慕わしいのです。
私達は堕落人間で、罪深く、不信仰が多いのです。ですから試練があるとも言えるのです。辛いことがたくさんあります。
例えばご飯がない時、お腹が空いた時、どれだけご飯が恋しいか?飢えの試練と同じように、お父様の愛のひとしずくを恋しく思わなくてはなりません。それは毎日の積み重ねです。日々の信仰の訓練です。
私は今そのように思えてきました。
限界状況で、電話でご相談をいただく方にもそのようにお伝えしますが、そんな次元の自分ではないと叱られます。
できる限り、可能な限りのアドバイスをしますが、私自身の力でどうなるものではありません。
全てに勝利された真のお父様、を慕い求めるしか道がないのに、私とあなたは違う、私の事情ではそんなレベルではないと言われます。
私が代わりの蕩減条件をたててあげるのにも限界があります。そう言うとちょっとおこがましい言い方ですが、よく使う言葉で表現すれば相手の言葉を聞いているうちに相手の霊界を受けてしまうのでそれを乗り越えて相手の霊界をある程度変えてあげるということになります。自分の無力さを棚に上げて相手の方をどうこう言うつもりではありませんが、自分の体力の限界あってどうにもなりません。
その点皆さまにもご心配をかけてしまいました。ありがとうございました。(ある程度休みを取りながら、薬を飲みながらやつてますので大丈夫です。初めて薬をもらいに行く持病持ちになって歳を実感しました。)
お父様はサタンに勝利され、怨讐を愛される心情の十字架の道を歩んでくださり、犠牲の愛を私達にくださいました。
お父様と比べれば、ほんのわずかな条件でお父様の愛を受けられます。
「 王様」という言葉はお父様の愛の勝利の偉大さがわかった分だけ実感が伴ってくるのではないでしょうか?
私達は、視えない神様と地上で人間として勝利してくださった真のお父様がおられてこその兄弟姉妹です。
原理を学ぶのも二代目王様を中心として三代王権に侍るのも、新しい人に伝道に行くのも全てお父様の勝利をお伝えし、お父様との因縁を作るためにあります。力を出し尽くしてお父様に委ねてお捧げします。そのような愛の因縁が広がっていくことを願ってやみません。