ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

誌上説教。“自分の魂を大切に。”「…自分の命をを失ったら何の得があろうか…」

今日は月曜日ですが、1日遅れとなってしまいましたが、誌上説教をしてみます。

この一ヶ月近い間、手首を骨折して以来、仕事も辞めて静養していました。

もちろんいろんなことを考え、模索してきました。

先週も先々週もこの誌上説教が結局できませんでしたが、できるだけ続けるつもりです。

それは読者がおられることももちろんあるかもしれませんが、自分のためにも感じたことを説教としてまとめたいのとその恩恵を受けたいと思います。

この一年半、勉強会も含めると二年以上説教のような勉強会をしてきました。

しかし、文章として残したことはほとんどありませんでした。礼拝や勉強会では恩恵もありましたが、(もちろんそうでない人もおられたと思います)やはり文章としてまとめていくことも自分に蓄積されるものとして恩恵やら、蓄積があるように思います。


さて本題です。

まず聖書拝読です。マタイによる福音書16章26節です。イエス・キリストは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

と言われました。

私達は現実の生活で様々な重荷や重圧を背負っていきています。

たとえば、経済問題やら、人間関係、人によってあらゆる問題が関わっています。

そしていつか死を迎え、霊界があるとすれば、そこで永遠に生きることになるでしょう。

そこでどんな姿でどんな風に暮らすか。誰にもわからないのですが、できるだけ良く暮らしたいと願っています。

ここでいう自分の命とは永遠に生きる自分の命と解釈しても良いと思います。

それは誰かからこうだああだと言われて決まるのではなく、自分がしてきたことの結果によって自分の姿がきまり、自分が自分の行くべきところを決めるのです。

霊界に行ってありのままの自分の姿のことを霊人体と言いますが、これは肉身すなわち地上で肉体と同じように生まれ、育ち成長します。

私は自分のこの霊人体がどのようであるのか、正確にはどうすれば成長する姿を見ることができるのか、ここ数年、ずーと研究してきました。

それでだいぶ発見することがありました。

冒頭の聖句に戻ります。七年の艱難の真っ只中にあって国が大変なことになっています。日本、韓国が危ないことはずーと前から感じていました。それで必死になって闘い、一部はブログなどで訴えてきました。

しかし、国や世界を救うのに必死であったとしても自分の永遠の命を失ったり、傷つけて良いのか?と言えばノーですね。

それは立派なことを言っていても、あるいはしていたとしても自分の本当の姿、一般的に言えば魂の姿が、おかしくなっていれば、その人は部分的には立派であったかもしれませんが、魂というか霊人体という本当の姿はおかしなものであったということです。

私の場合、本当に必死になって考え出したのは2006年ごろからです。ですから、十年余り前からということになります。

ブログで何回も書いて、自画自賛ようで申し訳ないのですが、その頃からの私の姿を一番よく知っているのは私の家族です。

ここ数年くらい前から私がガラ〜と変わってきたというのです。

今も変わろうとして必死です。何事もそうでしょうが

目標を持ち、必死で努力し、鍛錬し、多くの試練や挫折を経験しながら、人は変われるものです。

肉身生活はそれを教えてくれます。魂、すなわち永遠に生きる霊人体の姿も成長します。

韓半島が危ないとなれば、韓国、韓民族の為にも、日本や日本人のためにも救い出す道を必死で考えますが、もしそれに成功して、あるいは将来、私たちの願いである天一国ができたとしても、その市民になれたとしても、それで永遠の世界で天国に行けるわけではありません。

いえ、たとえ天国に行けたとしても私がそうである天国人であると本心から思えるかによって霊界の位置は変わってくるでしょう。

なぜなら自分の行くべきところは自分が決めるのです。

私は若い頃、原理に触れた頃よくスウエーデンボルクの本を読みました。「天界と地獄」だったと思いますがよく霊界の実相が描かれていました。もちろん完全であったとは思いませんが納得できる話が多かったのです。

その中で自分が行くべきところを悟らず、良いところすなわち天界のより高いところに行こうとしたある霊人の話が出ていました。

彼は美しい服をまとってつまりその高い天界の人の姿と変わらない姿を装って、そこを訪れました。より高いところほど為に生きる、つまり相手のために尽くすところに行くわけですから、そのような人が来ても疑うこともなく本当に良いおもてなしを受けました。最初彼もとても喜んでいました。

しかし、そのようなふりをしているのが

、だんだんと疲れて来て、誰も自分を見抜いたり、責めたりしないのですが、自分の良心が苦しくなっていくのです。

そして自分の良心が落ち着くところ、自分にふさわしいところに戻って行ったとありました。

どういうことかというと、自分にしてもらってばかりだと苦しいのです。してあげたいの願うのですが、地上でそのように行きてこなかったので、できないので心が苦しくなっていくのです。

私たちはこの霊人体の中心を本心と呼んだりしますが、基本的にこの霊人体の成長は地上でしかしません。

地上で、この本心は、現実生活のなかではいわゆる良心とつながっていて、私たちは地上の生活で良心と本心の願いに従って生きて行く人生に真の価値があります。

自己の利益の為にそこで生きることに価値がありません。

足らない内容であったと思いますが、これ以上書いても長くなります。今日はここまでにします。最後まで読んでくださってありがとうございます。



ここ一ヶ月ほど修行に行っておりましたが、もうじき手のギブスも取れるようにその期間も終わります。

身体も不自由でしたが、一種の修練会に行って来たような気分です。

散歩しても何にでも愛おしさを感じています。


さて私の大阪での次の礼拝は6月25日の日曜日いつもの場所です。それでは皆さまお元気で。

(これからも誌上説教はやります。)

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