日本、韓国の間のことの雑感。〜提岩里を訪ねたこと〜
先日の礼拝の後の懇親会で、日本と韓国の話になりました。
その時思ったのは、長い日本の歴史の中で、韓半島からさまざまな思想、宗教、文化、技術などを受け入れて今の日本があるということに改めて気がつくのでした。
そこで、韓国、韓半島が果たした役割はどうだったのでしょう?
北朝鮮や共産主義の脅威は現実のもので、過去からのさまざまな交流の「遺産」は確かに過去のものです。
しかし、過去があって現在があります。
私は前々から、日本と韓国のの歴史について、自分なりの意見を書くつもりでいました。
かなり、手に余るのでまで書いていませんが、今韓国に滞在したときことが思い出されます。
それはある家庭連合での活動をしながら、学生として学んでいた頃、休みの時に韓国の女子学生に案内をしてもらって、“'提岩里(チェアムリ)”に連れて行ったもらったことがあるのです。
彼女の家が、その付近にあって彼女は行ったことはないのだが、通っていた教会で道を聞けばいけるとということでまず、その地元の教会に行きました。
そこの応接間で、ああ、あそこの家の誰がしの同生(トンセン〜弟、妹のこと。)だな、などとしばらく3人ほどの協会の男性のメンバーと話しました。
ヨドンセンと言わずトンセンと彼女のことを言ったことまで覚えているのですが 、他に聞き取れた言葉は残念ながらほとんどなかったと思います。
しかし、えー?日本人が提岩里に行くのか?と驚きの言葉でこちらを見たのはよく覚えています。
驚いたのとなぜ行くんだろうという気持ちと、感心したようなものが入り混じったような感じでした。
バスから降りて少し歩いて、普通の田舎の風景の中で、少し道を上がった奥に提岩里3.1運動殉国記念館が、ありました。
強烈なイメージがあって逆にあまり覚えてないのですが、知識としてはすでに資料的には知っていたのですが、胸が締め付けられる思いでした。
もちろん世界にはクリスチャンにとっても悲惨な出来事はたくさんあったと思います。
共産政権下の迫害の酷さもわかっています。
しかし、日本と韓国は近い国です。古代渡来人が多く来た時代は通訳なしで、交流ができたと言われる時代もあったのです。
やはり現地に行って、言葉もなく、バスの中で絞り出すように「日本は申し訳無かった」と、案内した女学生に言葉をかけるとどんな胸に突き刺さる言葉が出るかなと覚悟したのですが、「韓国が弱かったから。」という答えがかえりました。
日本を責めることばでなかったのは正直ホッとしたのですが、何か複雑な気持ちでした。
その時バスの中でゆられながら見た本当に不便な田舎の光景は今も頭にこびりついています。
今から三十年近い前のはなしです。提岩里事件のことを知らない方がおられたら、どうぞお調べになってくださればと思います。
事件の犯人というか、当事者は軍法会議にかけられましたが結局、無罪となりました。
日本はそのことを隠そうとしましたが、カナダ人宣教師によって写真と記事が上海から世界に配信されました。
もし、日本の片田舎でこのようなことが外国の軍隊からされたならば、それは深い悲しみと慟哭があったでしょう。
3.1独立運動の後、日本は武断統治から転換し、太平洋戦争までは文化統治と呼ばれるやや融和的な政策に転換されました。
それによって韓国の発展に寄与された面も大きいと日本では評価する向きももちろんあります。
しかし、韓国の反論とは別に私はそのことが韓国に大きな歪みというようなものが生じてしまったと考えています。
そのことについてはまた書くことがあるだろうと思います。
神の国は韓国を超えて、日本を超えて、繋がることを願っています。