誌上説教。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
誌上説教です。よければお読みください。
○ 聖書拝読 ヨハネによる福音書三章16節〜18節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」
○説教
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」
これも実に有名な聖句です。
ひとり子とはイエス様のことです。
まず、ではなぜイエス様が神様のひとり子なのでしようか?聖書では人類歴史はアダムのエバからはじまりました。それ以後、それこそ何十億、何百億数かぎりない人間が、誕生したことでしょう。
しかし、本当に神様の子と言える人はイエス様しかおられませんでした。
なぜでしょうか?それは人類始祖と言われるアダムから人類が出発し、このアダムから原罪と言われる罪をその後の人類すべてに遺伝していったと聖書に書いてあるからです。
アダムの原罪とは神様が取って食べてはならないとされた善悪知る木の果(実)を食べることによって生じました。
そしてそれ以後その血統から生まれたすべての人類は原罪を持ったと考えられています。
その証拠に神様が創造されたのになぜ人間が悪なることを考えたり、またそれを実行してしまうのかという人間の不完全さ、あるいは悪性(堕落性)を説明できません。
ところがイエス様だけはその原罪とも全く無関係な完全な神性を持つ神様の息子であることを神様のひとり子と表現されたのです。
イエス様の完全な神性については十字架上で示された“無償の愛”によって示されています。
神様から人類を救うための救世主、メシアとして送られながら、みことばと愛の役事(さまざまな奇跡)をされながら、最後は弟子たちにも結果的には背かれ、不信されて、迫害と誤解、曲解のさなかで十字架につけられました、
しかし、この死の絶頂にあっても十字架につけて迫害する者たちに対して、「父よ!彼らをお許しください。かれらは自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカによる福音書 23章34節
と死に至る痛みの頂点で魂の叫び声を上げられました。
この十字架で示されたイエス様の愛によって原罪を持つ堕落の血統である私達人類に救いの道が与えられたのです。
そして生きて行く上で、意識的であったり、無意識的であったとしても罪を犯して、地獄に行くしかなかった人間もイエス様を信じることによって救われる道が生まれたのです。
それは「私を受け入れる者は私も天にいます私の父の前で受け入れる」(マタイによる福音書10章33節)と言われたイエス様は罪の持った私達を救い主となられたのです。
そこで、「私は道であり真理であり命である。私を通さなければ誰一人父のみもとに来ることはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とも言われました。
私達に罪の自覚があれば、救い主イエスを信じることによって自分も救われるということです。
しかし、イエスの十字架で示された救いは無限の救いかというと限界がありました。
それはイエスを信じた篤実な信徒の子供もやはり、原罪をはじめとする罪に苦しみ、人類はいまだ原罪から解放されたとは言えないからです。
そこで神様は再臨のイエスすなわち再臨主を遣わされるのです。
それは初臨のイエスと同様に
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」のです。
私達は再臨主としてこられたお方を信じ、イエス様の時と同様ですが、イエス様の時にできなかったこと、すなわち自らの十字架を取り、その痛みを共有して、再臨主と一つになることによって救いを受けることができるのです。
『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』」(マタイ16:24〜25)
再臨主の十字架とはなんでしよう?
再臨主としてこられた文鮮明師はイエス様の“肉体の十字架”を七度も越えられました。ご家庭も犠牲にされたのは、肉体の十字架以上の心情の十字架と言われます。
私達の自分の十字架がどんなに重いものであったとしても、イエス様や再臨主よりも重い十字架はありません。
人類歴史上、 神様がひとり子として送られた方は人類始祖のアダム、イエス、そして再臨主しかおられません。アダムは失敗して原罪を人類に与えました。イエス様は十字架を通して人類に救いの恩恵を授けました。しかし、限界もありました。
再臨主である文 鮮明師はイエス様のやり残したすべての使命を全うするためにこられました。
そしてその使命のほとんどを果たされましたが、残された使命を、息子である後継者に託されたのです。その後継者は末の息子 文 亨進師です。
再臨主はただお一人ですが、人類救済の使命は残されたのでその使命はその息子に託されたのです。直接再臨主自身が後継者を決定されたのです。 それは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」という聖句の通りです。