ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

シャボン玉さんの「 韓国の聖殿食口たちに襲い掛かる試練と分別 」の記事を読んでの感想。

シャボン玉さんの「 韓国の聖殿食口たちに襲い掛かる試練と分別 」の記事を読みました。胸の痛い内容でした。

一読して、その記事を読む限り、私の個人的感想は、シャボン玉のご意見にほぼ同調できるかと思います。

しかし、シャボン玉さんの記事しか読んでいないので、李 相烈会長を批判している方々のお話は聞いていないので、判断が難しいのも事実です。その上でシャボン玉さんのこの記事を読んだ時点での感想を述べて見たいと思います。

日本人以上に韓国の方々は主体性が強いので、主張がはっきりとしていますが、家庭連合との戦いも韓氏オモニに対してはっきりと間違いを主張することも私は良いと思います。

その実際の場面を見たわけではないので、よくはわかりませんが、合法的で暴力的でなければ、良いと思います。

民事での訴訟問題があってもそれは仕方ない面もあるだろうと思います。

そのような感想を持つ一方で、そのような分裂の動きもまたありうるだろうと考えます。

客観的に言うようで申し訳ないのですが、二代目王様はこれから韓国は分裂していくと言われました。

サンクチュアリ内部のことを言われたのではないとは思いますが、これから韓国で起こるであろうことを予感させる動きかなという感想があります。

摂理の中心的位置に立って善悪の戦いをすれば、その戦いは個人的次元とは思われません。

韓国全体を背負っていると私には思えます。

これから韓国に起こるだろうことを考えるとゾッとしてきます。

それはよく言われる戦争だけのことではありません。

容共的な文在寅政権になってひょっとして共産党政権ということになって弾圧されることだけでもありません。

国の分裂を招いていくことです。

これを書こうとするのですが、韓国の方々の心を思うと、日本人の私が書くことが憚れてきました。迷いながら、書いています。

国が分裂していきます。ですから、同じサンクチュアリを信じ、確信しているもの達であっても分裂の危機が来るのは間違いないと思います。


世の中でも、ひょっとしたらサンクチュアリ内部でも、共産主義に反対し、文在寅政権に反対していてもはっきり行動に移せる人ともっと良い方法があるだろうとして別れていくと思うのです。

これから韓国で起こるだろう分裂は本当に悲劇的だと思いです。その苦難はある面戦争以上な面があると思っています。


歴史上最大の韓国の悲劇が日帝36年であるのかもしれません。

私はそれ以上の苦難がこれから起こるだろうと見ています。それは国の分裂の危機です。

実は日帝時代に韓国は深いところで分裂していたのだと思います。

腹の中では日本に反発して日本人は決して許さないと思いながら、生きていくためには現実的にはある程度協力して(あるいは協力しているふりをして)生き延びてきた人と、パルチザンや抵抗運動に身を投じ、徹底的に、文字通り、命がけで戦ってきた人です。

それは分裂ではないと韓国の多くの方は多分みなさんおっしゃるのだろうと思います。

私は日本人ですからそのような内容を語る資格や位置はないのかもしれません。

しかし、見て見ぬふりをするのも辛いので、いつか言う機会はないだろうかと常日頃考えてきました。

今がその時であるのかわかりませんが、韓国は深いところで分裂していたと考えています。

日本は強いので今は戦う時ではないと考えて、かたちや表面的には協力していつかは日帝を倒そうと考えていた人たちがいます。数的にはかなりそちらが多いのだと思います。それもわかります。

そうではなくあくまで日帝と戦い抜くと地下工作であれ、野戦で戦うパルチザンであれ、三・一独立万歳事件のように独立万歳を叫び続けたりと、姿、形は違っても命を懸けて戦っていった人たちと、形としては日帝に従って生きようとしていた人たちからは分かれます。

解放後の韓国は国全体がだんだんと強くなり、日本に対する要求はエスカレートしてきました。

反日を叫ぶことで、分裂はなかったことのように覆い隠されます。すべての人が皆パルチザンのような方の子孫であったかのようになります。

文在寅政権がやがて、北朝鮮との平和協定を結んで、在韓米軍が撤退して、アメリカ抜きの南北統一が達成される時、同じようになっていくと考えます

文在寅政権や金王朝に擦り寄り、そこで仕事を得て、生活の糧を得て、協力していくのです。

それが天の目から見てどれほど辛いものがあるか( 簡単にはわからないでしょう。)。

私たちは家庭連合から別れました。分裂して仲違いして、互いに批判、非難しあっていると世間的には見えます。

どっちもどっちだろうと言う言われ方をします。

しかし、それを恐れて妥協はできません。

家庭連合に対して心を開かせるようにもっと良い方法があるだろう、韓氏オモニにもきちんと礼を尽くして、紳士的、あるいは申し訳ありませんと言う低姿勢で行けばもっと良いだろうなどなど。


言わんとすることはわかります。しかし、サタンがわかっていないと私には思えます。

共産主義との戦いは紳士的な、宥和的な、あるいは融和的な姿勢で戦えるものではありません。

韓氏オモニを今のような姿にしたのは責任を感じるのは良いのですが、最終的にはサタンがあのように韓氏オモニを誘惑して一体化したのです。


私たちはサタンとの戦いをしているのであって韓氏オモニを人間的に糾弾しているのではありません。

韓氏オモニをこうしたのは自分たちだと責任を感じるのは本当に正しいことです。その悔い改めは非常にわかります。

しかし自らをまずサタン分立しなければなりません。

蕩減は犠牲の条件です。うまくやろうとするものではないのです。私が状況をきちんと把握しているのかはわかりません。

その犠牲の祭壇に自分をまず捧げることができなければなりません。

二代目王様は蕩減の祭物になるには完全に罪がないものでなければならないと言われました。

自分を祭物にできるのかどうかが決め手でしょう。

うまいやり方や実力はあるに越したことはもちろんありませんが、蕩減の祭物として歩んでいるのか、まずは自らが問われるべきだろうと思います。

人は自由です。もちろん伝えられたら良いのですが、伝えてもわかるわからないはその方の自由と自由意志によるのです。

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