ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

日曜礼拝のご報告。8月20日。大阪にて。再現の誌上説教です。

昨日は実体の礼拝を大阪にてしました。前に書いた牧師の卵のご紹介いただいた方は日曜日がお仕事ということでお見えにはなれませんでした。

○聖句 ルカ福音書23章34節

「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」

○説教 「 無償の愛 」

キリスト教の真髄はこの十字架上で示されたイエスの愛を受け入れて信じることです。

イエスの言葉を信じたり、その奇跡などの役事を受け入れたりすることよりも、十字架上のイエスの示された無償の愛を信じうけいれることが最も大切なものです。

それが、イエスの魂の真実な姿であり、その愛に触れて、その十字架上の愛と一体化することよりも大切なものはありません。

そうなったならば、その人はイエスと同じところに行くことができます。

わたしたちはイエスの愛に触れて、その十字架と同じ道を歩むと同時に、肉身を持って、原罪を清算して、イエス様のやり残した道までも再臨主とともに神様のみ旨を歩みます。

ではイエス様の十字架で示された無償の愛とは何の意味があったのでしょう。

イエスはイスラエルの王、すべての王の王としてこられた、イスラエル民族の悲願であった、救い主としてこられた方でした。

しかし、無知と不信仰なイスラエル民族、特にその指導者であった祭司長、律法学者達、によって、神様を冒涜するもの、律法を排する、世を惑わすものとして、誤解され、曲解され、蔑まれ、排斥され、十字架につけられたのでした。

先の十字架でのイエスの言葉の次を見て見ましょう。

「 人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。


「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい。」

(ルカによる福音書 23:35, 37)

イエスの最期を霊的に見た人によれば、イエスが身にまとっていた最後の一枚の着物まで彼らは分け合って引っ剥がしたと言われています。

どれほどの肉身の痛みと心の痛みと屈辱に満ちた最期であったか。

その苦痛の絶頂であっても、イエスはご自身を十字架につけた人々、嘲り、罵り、嘲笑した人々に怒りの言葉を発することなく、神様のみ心に従い、憎まず、恨まず、嘆かず、その魂を神様のみ手に委ねられました。

あらゆる苦痛の絶頂で人類の救いの道を開かれて、イエスの肉体はサタンが奪いましたが、その魂にはサタンは指一本触れることができませんでした。

その愛に触れて、その十字架の救いを信じる者には救いの道が開かれました。

そのように出発したのが本来のキリスト教の出発でした。

私たちの根本の土台はそこから始まっています。

その恩恵はイスラエル民族だけのものではなく、に全世界の人類全体に広がっているのです。

私たちも本当はその位置まで復帰した立場にならなければなりません。

そしてイエス様とともに歩むと同時にそのやり残された道までも歩んで、この地上に神様の本来の創造の目的であった地上天国、そして天上天国を実現していかねばなりません。


そのために神様が送られたお方が文鮮明先生です。文先生はイエス様のような肉体の十字架を七度超えられて、さらにそれ以上の十字架を超えていかれました。

それはご自身の生命以上に愛された弟子たちはもちろん、ご家族まで、犠牲にしても、神様の御心に従っていかれました。

そして、イエス様ができなかったこと、すなわち原罪の無い、またイエス様と同じ神様の愛、すなわち無償の愛の結実であられる血統を遺されました。

その真正なる後継者が、七男文亨進師なのです。それはイエス様が遺すことのできなかったメシア、救い主の真の血統を持たれ、なおかつ心情としても、信仰生活においても

その後継者にもっともふさわしいものとして文先生より、指名されました。

まさに王の王としてこられたイエス様のお立場を受け継いだお立場を受け継がれたのです。

私たちはそのお方を信じ、従うことによって、神様のみ旨である地上天国、天上天国建設の担い手のなることができるのです。

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