ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

誌上説教。「あなたは今日、私と一緒に楽園(パラダイス)にいるであろう。」

誌上説教。

よければお読みください。


○聖書拝読 ルカによる福音書  23章 39節~43節

  十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるだろう。」と言われた。

 

○説教「あなたは今日私と一緒に楽園にいるだろう。」

イエス様が十字架につけられた時、二人の強盗も一緒に同じように十字架につけられました。

一人はイエス様の左側に、もう一人は右側に。彼らは最初のうちはイエス様を嘲り、罵る祭司長や律法学者、長老、その度多くの民衆たちとともにイエス様を罵っていました。

しかし、十字架につけられたイエス様は「父よ、彼らを許してください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないのです。」と言い、全く、悪態を吐くこともなく従順に神様のみ手に自らを委ね、その苦痛の絶頂にあってもむしろ神様に人々を取りなす姿を見て、右側の強盗は神のもとに行かれるイエスを信じたのです。

ここに私達の信仰の拠り所を見出すことができます。

私達はイエス様に従ってきたとしても同じ十字架を担うことはできません。

同じように罪びとや自分を殺そうとする人に対して、同じように「無償の愛」を示すことはかなり難しいでしょう。


しかし、審判があったとしても、イエス様の十字架は私達の罪を償うためにあったことを信じ、悔い改めるならば、私達もイエス様と同じところ(楽園)に行くことができます。

自分自身の罪ゆえに苦難の道、十字架の道が来た時、その時こそ、イエス様の十字架を信じ、罪を悔い改めることが必要です。

それはイエス様だけが行かれた道ではありませんでした。

イエス・キリストの再臨の主が来られた時も同じ十字架の道がありました。


イエス・キリストの行かれた道がその生涯に渡り、十字架への道であったように、再臨の主の行かれた道もまさに十字架の道を歩まれることとなったのです。

イエス様はイスラエル民族の不信仰ゆえの十字架でありましたが、再臨のキリストはイエス様の再臨を待ち望んでいたはずのキリスト教徒たちの不信仰によって生きて十字架の道を歩まれました。

イエス様の時も、救世主(キリスト)を待ち望んでいたはずのイスラエルと呼ばれたユダヤ民族の不信仰によって十字架の道となりました。

再臨主は止むを得ず、統一教会という新しい団体を作られましたが、最後はそこにも裏切られる結果となりました。

人類の代表とし選ばれた選民のイスラエル民族は一旦滅んで世界に散りましたが、代わりにキリスト教徒が、逆さ十字架にかかり(第一弟子のペテロ)、多くのクリスチャンが迫害の道を行きました。

私達も生きて十字架の道を行かなければなりません。

途中で心変わりをしては落第です。


統一教会、家庭連合の幹部たちは、もう苦労したくないとして、十字架の道を否定し、犠牲的生活を捨てて、韓氏オモニを立てて、自らの生活のために私財をためて行きました。

イエスの右側の強盗は違いました。強盗ではありましたが、十字架を受け入れ、死の場面で、イエスを信じ、従いました。イエスが神様のもとに行かれることを知ったのです。

偶然にも同じ十字架上で、その選択をしたのです。

左側の強盗はできませんでした。私達の境遇が厳しいのは信仰のせいだけとは限らず、先祖の影響もあるでしょうし、自分の足らなさもあるかもしれません。

しかし、厳しい境遇はイエス様も再臨主も厳しい十字架の道を歩んでおられるならば、そのイエス様を信じ、従えることの感謝、と喜びをもって生活することが大切であると思います。

ましてや再臨主とともに生きてきたと、またそのキリストの後継者、継承者とともに歩めることに感謝と喜びをお捧げすることができることは無上の幸せではないでしょうか?

9月23日は審判の時とも言われています。

それを神妙に受け止め、しっかりと悔い改めるとともに、再臨主とその後継者とともに歩めることに無上の幸せと感謝の気持ちを捧げましょう。

それはいかなる境遇にあったとしてもです。

私はとてもそんな感謝などできないと言われるお立場もおありでしょう。

しかし、文鮮明先生は御自身の息子興進様が自らの命を捧げて二世の兄弟を守ったことに触れ、結婚式を挙げる以上の喜びの気持ちで愛が全てに勝ったという日を定められました。

文鮮明先生が歩まれた人生そのものがそのような連続であられました。

私達も死の瞬間まで、右側の強盗のように、最後の最後まで、すなわち生ある瞬間、瞬間をそのように生きて、死の瞬間までそのように生きましょう。

そのように生きてこそ、お父様と呼ぶ文鮮明師とともにパラダイス(楽園)に行くことができるでしょう。

さらに生きて家庭天国、氏族メシア使命を完遂してできたら、天国に行けるように力を合わせて頑張りましょう。

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