ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

誌上説教「死なんとする者は生きる」“二代目王様の胸の負傷はイエスが槍で突かれたのと同じ箇所。”

誌上説教。「死なんとするものは生きる」(後編)

四月八日の礼拝説教の要約補足。


キリスト教においてイエス様の死後、その復活によって再び集められた12人の弟子たちが出発して、やがて世界的に拡がりました。

教祖の死後わずか12人程度の弟子たちから始まったその原動力は何かとを尋ねたところ一つのヒントがその伝道の姿にあったと思います。

それがイエスを慕う弟子たちの究極的な願いが十字架にありました。

再臨主を迎えた今日では肉体的、物理的十字架は必要ありませんが、そのキリスト教の伝統、その真髄をいかに相続するかは重要であると思います。

私たちの宗教的素養は先祖供養を中心とする先祖を敬拝すること、仏教的な考え、儒教的な道徳観などであります。

それはそれで美しいものですが、神様とともに生きるにはその限界があり、聖書の言葉(聖句)を学び、イエス様を通して再臨主を受け入れ、心情と信仰を成長させることはとても大切なことです。

再臨主を初代とする三代王権の二代目王様は、前編で紹介した通り、聖書を学ぶ重要性について、最近も語られています。

そこで私たちの信仰の祖先と言うべき姿として浮かんできたのが聖26人(殉教事件)です。

前編において、そのあらまし背景などを紹介しました。

一行は京都で市中曳き廻しされてから長崎まで一ヶ月近くかけて、歩かされ、、イエスが十字架につけられたゴルゴダの丘と似ているので長崎西坂の丘で十字架上で処刑されました。

日本人20名と司祭などを含む外国人6名です。

外国人司祭の一人はイエスと同じ釘付けの十字架を願いましたが、そのような習慣が日本にないことを理由に他の全ての人と同様に縄で十字架に縛られて、まもなく全員槍において、イエスと同様脇腹から胸にかけて突かれて絶命しています。

先日の八日の礼拝の少し前に二代目王様が、胸の肉離れがあり、負傷された箇所はイエス様が槍を突かれたところであるという報告が、アメリカPA本部の総務からありました。

そのような意味でも、つながりを感じます。

ところで、その26聖人(ローマ・カトリックでは正式に聖人として1862年列せられています。)の中で最も知られているのが聖ルドビコ12歳です。

日本でも世界でも多くのカトリック教会が26聖人を祀っていますがその一つカトリック上福岡教会の記述を紹介します。


〜引用開始〜

「ルドビコさまは 十二才」

ルドビコさまは 十二才

耳をそがれて しばられて

歩む千キロ 雪の道

ちいさい足あと 血がにじむ(作詞・永井隆)

この詩に歌われているのが、ルドビコ茨木です。

1597年2月5日、長崎・西坂の丘(現在の長崎市西坂町)で、フランシスコ会の神父や、日本人の信徒など26名が、十字架につけられ、処刑されました。時の権力者、太閤・豊臣秀吉の命令によるものです。その中の1人が、ルドビコ茨木でした。26人中の最年少で、当時12歳。京都にあったフランシスコ会の修道院で、病人の世話にあたっていたといわれています。

「耳をそがれて しばられて」

当時、日本に滞在し、『日本史』などの著作で知られるイエズス会の神父、ルイス・フロイス(1532-1597)は、この事件について詳細に書き記し、ローマに報告しています。フロイスの報告書から、ルドビコ茨木の人物像に近づくことができます(以下の引用は、ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』結城了悟・訳、聖母の騎士社、1997による)。

ルドビコが捕らえられたときのことについて、フロイスは次のように記しています。役人は「この少年が年少だったので哀れんで命を救うために名簿に記入したくなかったが、少年は執ように懇願しつづけたので、その聖なる懇願により彼を名簿に記入した」(「あとがき」)。

1月3日、一行は、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されました。

「見物人を涙ぐませると同時に、皆を驚かせて、信心を起こさせたのは、修道者の同宿であった三人の少年を見ることであった。」(註:「三人の少年」とは、ルドビコ茨木と、聖アントニオ13歳、聖トマス小崎14歳のこと。)

「三人とも天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)

「歩む千キロ 雪の道」

「ルドビコが牢にいた時、身分ある一人の異邦人(註:日本人のこと)が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勤めた。子供は答えて『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言った。」

「この少年は、後でミヤコ(註:京都)から長崎への道では神を賛えるために表していた死ぬ覚悟に修道者さえ驚いていた。このすべてをフライ・フランシスコ・ブランコ(註:殉教者の1人)が道中、フライ・マルセロ神父に送った手紙に書いている。」(「第8章」)

一行は、見せしめのため、大阪と堺でも、同じように引きまわされました。堺を出発したのは、1月9日で、遠い道のりの末、長崎に到着したのは、2月5日です。道中は、雪や霜のため、たいへん苦難に満ちたものであったと、フロイスは記しています(「第13章」)。

唐津(現在の佐賀県唐津市)で26人は、長崎奉行・寺沢広高の弟、寺沢半三郎に迎えられました。

「この二十六人の下僕らの中に(略)十二歳の非常に朗らかな少年がいて、半三郎は彼に、『そなたの命は私の手中にある。もし私に仕える気があれば、そなたを助けよう』と言った。少年は答えて『自分の命はフライ・ペトロ(註:殉教者の1人)の決定に従います』と言った。」

「フライ・ペトロはそれを聞いて『彼がそなたの生命を救うとして、もしキリシタンとして生きることを許されるならば従ってもよい、と言いなさい』と告げた。しかし半三郎は『そうではない。キリシタンの教えを捨てるならばよい』と言ったので、子供は『そのような条件であるならば、生命を望みません。つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです』と答えた。」(「第14章」)

「ルドビコさまが にっこりと」

刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したといいます。

「ルドビコは朗朗として自分の十字架がどこにあるのかと尋ねた。子供の背丈に合わせて十字架が準備されていた。十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った。」(「第16章」)

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(註:天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら信者未信者を問わず人々を驚かせた。そのことで彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていた。」(「第18章」)

「少年ルドビコは非常に喜び、一人の信者が彼に『間もなくパライソ(天国)に行くでしょう』と激励したので、勇躍するかのように十字架に縛られている体を上方に動かすが、手が縛られていたのでせめても指先を動かしていた。」(「第16章」)

刑の執行人は、各殉教者に2人つき、1人は左側から、もう1人は右側から槍を刺し、この2本の槍でほとんど全員が息絶えたといいます。

ルドビコさまが にっこりと

笑って 槍を受けたとき

西坂丘の 夕映えに

ほろりと散った 梅の花

1862年、教皇ピオ9世により、26名は聖人に列せられました。現在、長崎・西坂の地には、聖フィリポ教会と日本二十六聖人記念館が建てられています。

〜引用終わり〜

女子パウロ会

二十六の十字架 (パウロ文庫)より。


〜引用開始〜

                 
 これらの信仰の英雄二十六人はさまざまの残酷な責め苦拷問を受けた後、厳冬の天候の中京都から長崎まで護送され、2月5日同地に到着、直ちに刑場の立山に引かれた。その様、苦しみつつカルワリオ山を登り給うた主イエズスにも似て、長い旅路に疲れ果て、力萎えつつ荒々しく刑吏に追い立てられて行くのは見るも痛々しい限りではあったが、彼らは目に喜びの涙を堪え、熱と乾きに乾割れた唇に、ロザリオの祈りを絶たなかったのである。

 刑場には既にそれぞれの名を記した26基の十字架が一列に立ち並んでいた。それを仰ぎ見た殉教者の口からは、自ずと「ああ、聖主の御死去あそばされた聖い十字架、我々も聖主と同様にあれに磔けられて生命を献げるのか」という感激の叫びがほとばしった。そして彼らはさながら貴重なものでも贈られたかのように、最後の力をふりしぼってその十字架の傍に走り寄りそれに感謝の接吻をした。中でもマルチノ師は声をあげてデ・テウムを歌い出した。すると他の人々も一斉にそれに唱和するのであった。
 日ははや西に傾いて、名残の光線は海の方から血のように紅く、山頂の十字架を照らした。殉教者達がその十字架に縄で縛められる間、刑場を囲む観衆は水を打ったように静まりかえってそれに見入るばかりであった。
 その荘厳な沈黙の中に、突如ペトロ・パプチスタ師の声が響いた「せめて私だけは釘で手足を十字架に打ち付けて下さいませんか」・・・ああ何たる壮烈な願いであろう。しかしその望みは叶えられなかった。ただ一同の頭首とも目される彼だけに他の人々と区別して只縄の代わりに鎖で縛りつけられた。そのため手足の痛みが一層甚だしくなる事はいうまでもあるまい。その残酷な処置を見ると周囲の見物人達はざわめき渡り、中には刑吏に対し腹立たしげな叫びを漏らす者もあった。けれども当のペトロ師は祈るように天を仰いだり苦痛をこらえるように目をつむったりするだけで一言も発しなかった。その身体は肉に食い入る鉄鎖の痛みにワナワナと打ち震えている。が、彼はなおも血の気のない唇を動かしてか弱い声で讃美歌を歌い、また祈りをつぶやくのであった。
 
 突然刑場を囲む竹矢来を破って一人の男が群衆の中から十字架の傍へ馳せ寄った。それはヨハネ五島の父親であったが彼が十字架に縛り付けられている我が子の足をいとしげに抱きしめると、ヨハネは僅かに頭を動かして深い悲しみに打ち沈んでいる父を見下ろし、まるで何の苦痛も感じていない人のように平静な声で言うのであった。
 「父上、お泣きなされますな。私共はただ今互いにこの世とあの世へ別れねばなりませぬが、それはほんの束の間の事でござります。やがて天国なる天主様の御許にて再会の暁は、もはや永遠に別離の悲哀はござりませぬ、私共の苦しみとてもその通り、一瞬にして過ぎ去るもの、私の罪の重さと天国の永遠の幸福とを思い合わせますれば、これしきの苦悩はまだ軽すぎる位でござります。父上、私は一足お先に天主様の御許に参り、父上の為にお祈り申しましょう。この先如何なる事がござりましょうとも、構えて一途の信仰をお捨てなされますな。どうぞ聖主イエズス様に祈念をこらし、父上の余生を天主様にお献げ下さりますように」
 そこへ刑吏等がやって来て涙にむせぶ父親を、子の十字架の下から拉し去った。

 いよいよ処刑の時が近づくや、三木パウロはやおら面を群衆の方に押し向け、厳かに口を開いた。「見物の方々、それがしが末期の言葉を心して聞かれよ!それがしはこれ国家に背く大逆人にも非ず、方々と均しく忠良なる「日本の民の一人なり。さるを今ここに磔られたるは、ひとえに世の救い主イエズス・キリストの聖教をのべ伝えたるによるもの、されどこの苦しみは大いなる天主の御聖寵にしてわが無上の喜びとする所なり。見物の衆よ、それがしが言葉を夢々疑い給うなかれ、古語にもいわずや、人の死なんとする、その言やよしと。それがしは今絶えなんとする玉の緒にかけて断言せん、この真の神、天主の聖教を他にして、永遠の生命に入る途は又とござりませぬぞ!それがし等ここに罪無くして十字架に磔るといえども、生命を奪う人々に対しても、つゆ怨みの心をも抱くものに非ず、唯方々及び我が日の本の国民がことごとくこの同じ救いの途に入り給わん事をひたすら希うのみ・・・・」
 その声、爽やかな鈴の音の如く冴えて、人々の心にしみ入った。満場、胸を打たれて、咳一つ聞こえず、深山の静寂をおもわせた。

 地上には落日の名残もようよう薄れて、青い夕闇が這い寄ろうとしていた。けれども信仰の英雄達には、既に天上の黎明がその薔薇色の光を落としていた。静かに静かに開けゆく永遠の世界の扉!・・・
 各々十字架の下に刑吏が二人ずつ歩み寄って、手にした槍をキラリ、キラリと右左から、殉教者の目の前で衝と十文字に組み合わせた。
 「イエズス・キリスト!」
 「サンタ・マリア!」
 「天国(パライソ)!天国!」
 「おお、天主(デウス)!」
 「わが魂、御手にまかせ奉る」

 恍惚と天を仰ぎつつ、口々に誦える最後の祈り。それに悄然と槍の穂先の触れ合う寒い響きも交じる。

 「よし、やれい!!」

 命令一下、閃く光、ブスリ、ブスリと左右から、各殉教者の脇下を背中へと貫く二本の槍。鮮血がサッとほとばしってその肉体がグッとのけぞるように動く、と見るとガクリ、頭を落として大きく最後の息を引き取る二十六聖。-
栄えある戦いは今ぞ終わったのである。

 1862年、教皇ピオ9世はこの日本教会最初の二十六殉教者を聖人の列に加え、毎年2月5日を以て全世界に




 パウロ三木は自分の前にある宣告文の書かれた高札に目をやると、十字架の上から身をのり出すようにしてはげしい声で群衆にむかって語りかけました。


「ここにいるすべての人びとよ、私のいうことをお聞きください。

高札の宣告文によると、私たちはフィリピンから日本にやってきたものどもとありますが、

私はそうではありません。正真正銘の日本人であります。私が処刑されるただひとつの理由は、

私がイエズス・キリストの教えを説き。教えたというかどによるものです。


 私ははばからずに申し上げます。


 私はまさしくイエズスさまの尊いみ教えを説きました。そして、そのためにはりつけにあって死ぬことを、もっともいさぎよし、心から神に感謝するものであります。

 人は死にのぞむとき、まことのことを申すといわれていますが、私はいま死にのぞんで、

真実のみを語ります。・・・・・・

あなた方ご自身が幸せになれますように、イエズスさまにお助けをお願いください。


 私はイエズスさまに従いました。イエズスさまを見ならって、わたしも迫害する人たちをゆるします。私は私たちに死を宣告した主君も、刑を執行する人たちも、少しも憎んだりうらんだりはしません。


私はすべての日本人がキリスト教の信者になることを望みます。


 神がすべての人々の上に、あわれみをたれたもうことを、祈ります。


 私の流す血が、みなさまの上に、豊かなみのりをもららす慈雨となりますように願っております・・」

〜引用終わり〜

ここに記されていることが、全てが事実がどうかはわかりませんが、この処刑には受刑者の肉親も含めて多くの群衆が目撃していることであり、秀吉という独裁者の命であるにもかかわらず、ある程度受刑者の意思を汲んだり、またなんとか助けようとした役人の記録があるように、後世に残された言葉や様子はある程度信じられるべきものがあったでしょう。

それ故にローマ教皇から聖人と列せられるには相当程度の、それにたる証拠、証言が必要とされていることからも残された言行には信憑性が伺えます。

群衆は彼らからどのような恨みの言葉や嘆きの言葉が出るだろうと固唾を飲んで観ていたにもかかわらず、喜びと感動と栄光に包まれている彼らの姿を見たことは間違いないと思われます。

最初に取り上げた、12歳の聖ルドビコの私の十字架はどれ?と言いながら、身の丈にあった十字架を探して

喜びの姿で駆け寄っていく姿は聴衆の胸に刻まれたことでしょう。

また、絶命するまで説教をやめなかったと言われる最後にとりたげたパウロ三木(三十三歳)は死を宣告した主君(秀吉)や刑の執行者を少しも恨まず、憎まずという言葉は衝撃をもって受け止められたでしょう。

長崎がそれ以後もキリシタン迫害の地となり、多くの殉教者を出し、また隠れ切支丹の信仰が以後明治期まで続けられたのは、この26聖人の姿が原動力となり得たでしょう。

私たち日本人の偉大な精神的遺産であると思います。

(肉身を失おうとする) 死なんとするものは (永遠の霊的生命を持って) 生きる 。

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