昨日は礼拝を行いました。ご紹介します。
昨日は朝十時から大阪市南部の施設にて礼拝を行いました。
参加者は五名でした。とても恩恵を受けた雰囲気でした。
*聖句はマタイ二十七章四十五節からで、イエス様の十字架上の場面です。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?)」
*説教の内容です。
「十字架を慕い、十字架を喜び、十字架を越えよう。」
私達は人生のどこかであるいは何度か、神様から見捨てられたと感じた時があります。
それは神様を信仰する者にとって最も辛い時です。
その時は神様の独り子イエス様の十字架の苦難を思い浮かべばましょう。
イエス様ですらあのように神様に言われましたが、最後はルカ書によると「父よ、私の霊をみ手に委ねます。」と言われて息を引き取ったとあります。
私達も苦しい時、イエス様ですらあのように叫ばれたのですから、神様に訴えたとしても許されるでしょう。しかし、最後には神様の手に委ねる、つまり従順に神様のどうしようもない事情を受け入れなさいということです。
しかし、真のお父様はイエス様はあのように言われない方が良かったと語られました。
世界を天宙を全人類よりもはるかに尊い独り子イエスを失う神様の悲しみは、そのイエス様の声を聞けば、もっと悲しみは深くなると言われるのです。
それは単なる言葉ではなく、文先生ご自身が何度もイエス様の十字架、もっと深い心情の十字架を背負われても、そのようには神様に祈らず、神様を逆にお慰めしようとして歩まれた人生であられたからです。
それでは私達の日常的な十字架?はなんでしょう?
生活に追われ大変な環境です。しかし、それに追われるだけでなく、その時の苦しさ以上にイエスや再臨主として歩まれた真のお父様の十字架を思い、慕い、私達のため、人類のため、流された涙と血を感謝して、ともにみ旨を歩もうとしたならば、神様も喜ばれ、私達の永遠の世界での勝利がやってきます。
そこで霊界に行かれた李相軒先生の証を紹介して、生活が大変だったという食口たちは同じようなたくさんの食口たちの村で住んでいるのだが、自分が霊界に行ってみれば大変な厚遇された考えもしなかった立場で出迎えられた。そのことを驚いたということです。
生活の大変さが優先するか、メシアの十字架と共にいたいという心情で生活してきたかで全て変わってしまうのです。
韓国がなぜ、南北統一ができなかったのでしょうか?
日本人が言うのもおかしいのかもしれませんが、自分たちの生活が大変なのに貧しい北朝鮮の人までとても受け入れられないと思ったからです。
それにひきかえ北朝鮮は歯を食いしばって飢えに耐えながら、南北統一を願ってきました。もちろん軍事優先の先軍政治という間違ったやり方でしたが。
私達も自分の事情はギリギリです。
それでもお父様を愛し、その苦難の十字架を二代目王様とともに慕い、十字架を喜び共に背負って乗り越えましょう。
*午後懇親会を行いました。
事故で息子さんを祝福の少し前に亡くされたご夫婦の証をお聞ききました。
妹さんがお兄さんの分までもとサンクチュアリの二世たちを必死でケアに頑張っておられるそうです。
*会場の時間ギリギリの五時で解散しました。次回は8月20日です。場所時間は同じです。かいつまんでご紹介しました。