誌上説教。「主の霊のあるところに自由がある。」天一国の自由とは?
誌上説教です。良ければご覧ください。
○聖書拝読。
コリント人への第2の手紙三章17節。
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」
○説教。「主の霊のあるところには、自由がある。」
さて、自由という言葉はいろいろな意味で使えるのかもしれません。
(*の間の文章は飛ばして読んでいただても大丈夫です。)
*たとえば、原理講論では堕落論第5節(一)自由の原理的意義では一般的な自由とは何かということではなく、原理講論での自由の原理的意義を説明しています。
それはそれで原理的な意味での原理の理解には大切でしょうが、普通の立場ではすぐには理解できません。
また文先生も一般的な言葉で自由を語られることもあります。
もちろん二代目王様も一般的な言葉の使い方を普通にされます。
他にもそのような例は見ることができます。
たとえば良心という言葉ですが、原理講論では良心の定義は(参照〜創造原理第六節(三)(2)生心と肉心との関係から見た人間の心)はありますが、それとは別に文先生は良心は神様に勝るといったみことばがあります。*
二代目王様の使われている自由という言葉はいうまでもなく一般的な意味で使われている自由ということであると思います。
一般的な自由の意味は何ものの制約も受けない状態にあることを言います。
なぜ、それが大事なのでしょうか?
それは神様との間において何ものにも妨げられないあるいは神様との関係を妨げられないことが重要であるからです。
しかし問題もあります。なぜなら神様との関係を完全にストレートに築くことは不可能に思えるからです。
それでは自分がどの程度、神様とつながっているのか自分でわかるのか?という課題に直面します。
それは知識や経験はある程度役に立っても、自分のみことば知識として知っていても、充分ではありません。
あるいは神様を感じてきた経験が過去にあったとしても、それだけを根拠に自分は神様と確実に常につながっているという保証がないのも事実です。
そこでやはり祈りが重要になります。
霊的に祈って霊の存在である神様と繋がらなくてはなりません。
これが私達の課題でありまた審きであるとも言えます。
それは私達の課題にとどまらず、二世達、私達の息子、娘たちがさらにその試練に直面します。
私達一世は堕落の血統と堕落の社会や環境で生きてきましたが、二世特に祝福の二世は原罪もなく、両親から本来的な愛情で育てられてきたはずです。
ですから彼らの本性をどれだけ信じてあげられるかが大切になります。
二代目王様は天一国においても(性的)堕落はあるとお話されました。
そういう意味でいうと天一国は天国という言葉の意味と同じではないことになります。
そしてなぜ堕落があるかというとそれは自由が保障されているから堕落するものも出てくることは避けられないだろうと言われています。
麻薬を法律で禁止しないというのも同じ考えです。
その一人一人が、自分で判断できなければならないのです。
もちろん親がそれがどれくらい悪なるもの、あるいは悪なる影響があるものであるかをは熱心に話すことはしていいわけですが、最後は子供に強制はできないのです。そのように強制されれば、子供、特に祝福二世の心は傷を持ちます。
堕落人間であっても感受性が強けれは、時に深く傷つきます。
昔から言われてきた言葉としては心がスポイルされるというわけです。
スポイルとは辞書で引けば、最初に出てくる意味が① 本来もっている良い性質を損なうこと。とあります。
つまり二世は本人が理屈ではなく、本性として受け入れられない、あるいは自分が持っている大切なものを傷つけられたと感じるのです。
私もたくさん失敗してきました。だいぶ変わりましたが、今も失敗を重ねていると思います。
その意味で謙虚に子供の心に聞いて見ることは何よりも大切であると思います。
それは本当に大変なことです。
子供に教えてあげることは大切ですが、教えた後は子供の自由を保証しなればなりません。
天一国では、強制して堕落させないということはできません。麻薬もそうです。
ですからお父様もご苦労をされました。ご子女様が堕落しても、麻薬をしても強制的して止めることはされません。
私はその疑問が二代目王様のみことばでやっと理解できました。
主の霊のあるところに自由がある。というその自由の大切さは主の霊と触れ合うことができなければ、かなり困難です。
そしてその歴史の集積されたものがアメリカ憲法に凝縮されました。
その歴史と伝統を受け継いだ、つまりキリスト教は長成期の宗教であり、完成期の再臨期につながるものが、アメリカ憲法であります。その精神を受け継ぎ、それを基としたものが、天一国憲法なのです。
アメリカが自由の国とは本来そのような意味なのです。
「主の霊があるところに自由があります。」
自由な霊的環境て、イエス様を
真のお父様を感じて霊的成長する信仰生活を送りましょう。