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映画「軍艦島」に対する自省的な韓国での反響について。朝鮮日報の記事から。

朝鮮日報のオンラインに今韓国で話題の映画「軍艦島」についてのコラムがでています。


【コラム】映画『軍艦島』は骨の髄まで愛国・反日映画だ(1/1)

2017/08/11 21:01

(前略)

それよりも頭をかしげたくなったのは、リュ・スンワン監督の「二分法」発言だ。「日本帝国主義という時代背景に、善と悪という両極端な構図からアプローチして観客を刺激したくなかった」という言葉だ。映画の一部分は文字通り白黒の構図だ。日本人は女性まであくどく描かれ、朝鮮人も善人と悪人に分けられている。悪の側に属する人々をこの映画は断固として処断する。日章旗を引き裂き、鉱業所所長の首を飛ばし、親日の民族主義者を銃殺する。悪を懲らしめるためにフィクションとして登場したソン・ジュンギ演じる独立闘士がランボーのようにスクリーンを闊歩(かっぽ)するシーン、ろうそくデモへのオマージュである坑内集会のシーンは「評点テロ」(極端な低評価)の原因になっている。

 (中略)

 太平洋戦争を舞台にしながら、『軍艦島』とは正反対の評価を受けている作品がある。先月、ソウル・明洞芸術劇場で初演され、好評を博した舞台『1945』だ。親日と反日、労働と抵抗のはざまを漂いながら生きなければならなかった光復(日本の敗戦=韓国の植民地からの解放)前後の朝鮮人たちを描いている。日本敗戦の知らせを聞き、故郷・朝鮮に帰ろうと満州(現:中国東北部)の救済所に集まった人々。その中には慰安所を脱出したミョンスクとミスクがいて、「私ももう少し生きなくてはいけないから、知らないふりをしてほしい」と哀願する慰安所の主人や彼女を愛するようになった客の男、子どもたちをわざわざ日本人の小学校に通わせた救済所の班長など、さまざまな人々が描かれている。

(中略)


「この女二人を絶対に列車に乗せてはならない」という人々に対して、青年が異議を訴える。「つらい時代には自分だけ生き残ろうと顔を背けていたのに、今になってみんな独立闘士にでもなったかのように威張るんですね。私たちはみんなつらい目に遭ったんです。汚い泥水を、地獄を渡ってきたんです。みんな真っ黒になってあかにまみれたのは同じです。お互い洗い流してやらなければ。地獄から救い出さなければ。


(中略)


舞台『1945』の一番の見どころは、餅を売って故郷まで帰る費用を稼ごうと、救済所の朝鮮人たちがみんなで力を合わせて餅をつきながら平和だったころを歌う場面だ。歴史学者の申采浩(シン・チェホ)は、時代の流れを追って群れたがり、他人のせいにする韓民族の奴隷根性を叱咤(しった)したが、それと同時に韓民族は困窮の中でも隣近所の人々と餅をついて一口でも分け合った白衣民族だった。非常に感傷的なシーンではあるが、それにも増して客席が涙の海になったのは、韓国の現状がそれだけ暗鬱(あんうつ)としているからだろうか。北朝鮮の核問題が累卵の危うきにある今、敵味方の色分けや報復に余念がない為政者が恨めしいばかりだ。

文化部=金潤徳(キム・ユンドク)次長

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版


〜引用おわり〜


印象に残るところを抜き書きしてみます。


<「つらい時代には自分だけ生き残ろうと顔を背けていたのに、今になってみんな独立闘士にでもなったかのように威張るんですね。…」>


<歴史学者の申采浩(シン・チェホ)は、時代の流れを追って群れたがり、他人のせいにする韓民族の奴隷根性を叱咤(しった)したが、それと同時に韓民族は困窮の中でも隣近所の人々と餅をついて一口でも分け合った白衣民族だった。>


<北朝鮮の核問題が累卵の危うきにある今、敵味方の色分けや報復に余念がない為政者が恨めしいばかりだ。>

このような感想が韓国でも出てきたのは評価できると思います。軍艦島は上映当初はすごい勢いでしたが、その後伸び悩み、この朝鮮日報のコラムのように冷めた見方や批判的な見方も増してきているようです。

なお軍艦島に対する客観的な評価は次の記事を参考にしてください。


[deleted]•2y

なぜ軍艦島の世界遺産登録に韓国が反対しているの?| THE NEW CLASSIC ニュークラシック


全国の工場や炭坑などの中でも、端島・高島炭坑はいずれも劣悪な就労環境であったことで知られ、労働者が命がけで島を脱出しようと試み続けていたことから、周囲の住民からは「監獄島」と呼ばれていた。

特に朝鮮・中国人労働者は、日本人よりも厳しい労働状況に置かれていたとされ、実際に彼らは日本人労働者よりも高い死亡率となっていた。前述書によれば、1944 年の労働者数死亡率は日本人が1.9%であったのに対して、朝鮮人は2.4%、中国人は3.9%であったという。


次はウイキペディアからの引用です。

〜引用開始〜

(前略)

この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[26]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[26][18]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。

(中略)

1916年(大正5年)以降から少年及び婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される[27]。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された[29]。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという[29]。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した[30][31]。

(中略)

戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[32](端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年~1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる[33]。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。


〜引用おわり〜


日本人にとっても過酷な環境なと環境と状況下にあったようですが、韓国人更に中国人にとってはさらに過酷度が増していたことは事実だったと思われます。

その事実は受け止めて、共産主義と戦う保守派からの自省的な動きに目が止まりました。

これからの韓国との繋がりがこの辺りからてきてくればと思います。

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