ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

誌上説教。「審判の時に再臨主と共に過ごします。あなたは私を愛するか?」

誌上説教。よければお読みください。

○聖書拝読。ヨハネ福音書21章15節~17節


彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。

ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

イエスは彼に「わたしの子羊を養いなさい」と言われた。

またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。

彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。

ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心を痛めてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは、お分かりになっています」。

イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。


○説教 「審判の時に再臨主と共に過ごします。あなたは私を愛するか?」

9月23回が近づいています。

ブログ村にも審判に関するみことばが載っていたり、

審判に関する記事が目立ちます。

それはそれとして今日のテーマはイエス様の愛の表現とその第一弟子としてイエス様と共生きて、のちに弟子望んで逆さ十字架でなくなったヨハネの子シモンと呼ばれたペテロの知っている愛との違いを考えてみたいと思います。


イエス様はサタンに勝利したメシア(救世主)です。

弟子は師のように生きたいと願い、その愛を受けて、その愛とひとつになり、その愛を受け継ぎたいと願います。

ですから

イエス様の持っておられた愛と弟の筆頭となったペテロの持っていた愛との違いがあるとれば、私達もまた同じ様に再臨主である文鮮明先生とも愛の内容が違います。

そして文先生からその最も心情的にも、信仰的にも最も優れているとされてその後継者に指名された文亨進様とひとつになることがもっとも望まれていると考えます。

つまり、私達は今地上におられる文先生の代身者、亨進様とどれだけひとつになっているかが大事なことだと思います。

さてイエス様は十字架の死後、“復活”されてペテロ・シモンに現れました。

そして、「ヨハネの子シモンよ。あなたはこの人たち以上に私を愛するか、」と聞かれました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

この内容が三度も繰り返されています。実はこのイエス様がペテロに聞かれたときの「愛するか」という言葉とペテロの「愛しています」という言葉は同じ愛と訳されていますが、実はギリシャ語では別の単語で書かれています。

当時の聖書はギリシャ語で書かれていました。またユダヤの言葉とギリシャ語とは親戚のように近い言葉だったので、原語でも、イエス様の聞かれた「愛」という言葉とペテロの答えた「愛」という言葉に意味の違いがあったと言われています。

それではどのように違っていたのでしょうか?

イエス様「愛」は今の言葉にするとアガペーという意味の愛でした。これは見返りを求めない、自分を犠牲にしても与えたい愛を意味します。

無償の愛です。

イエス様はその愛という言葉で私を愛するか?と聞かれたのですが、率直なペテロはどうしてもイエス様の言われたアガペーという言葉を使えず、代わりにフィリオという言葉で愛しています。と答えたのです。フィリオつまりフレンドシップの意味の友情を表す言葉だったのです。

それでイエス様はもう一度私をアガペーの意味の語で愛するか?と聞かれました。

ペテロはやはりフィリオの意味の愛します。と答えました。

フィリオ、つまり友情はときに変わりやすく、裏切られたりということもあったりして友情が壊れたり、疎遠になったりします。

しかし、アガペーはそれでも変わらず、愛そうという愛です。フィリオはどちらかというと持ちつ持たれつといったギブアンドテイクの面があるのですが、アガペーは相手がどのようであっても永遠に変わらない愛なのです。

イエス様は生涯、十字架上でもそのアガペーの愛を貫かれました。

しかし、ペテロの愛はそのようなものでなかったために、アガペーの意味の言葉は使うことができなかったのです。その意味でペテロは正直な実直な人であったのです。

それで三度目はペテロの言葉でつまりフィリオの意味で愛するか?と聞かれたのです。

本当はアガペーの愛で一体化を願われたのですが、どうしてもペテロができなかったので、どこまでも要求されることなく、それでもいいんだ許すよ。といわれているようです。そこに変わらぬ「愛」を持って接しておられる姿であると同時に通じない心を抱え、悲しみの心もお持ちだったのではないかと思います。

私たちもかつて文先生にお会いした時お父様と呼びながら、許されることのみで、深い悲しみをおあたえしてきたにちがいないのです。

また、今回亨進様にお会いできる方もいらっしゃると思いますが、誰よりも一番二代王であられる亨進様を愛する必要があります。亨進様には文鮮明先生かとも「おられるのです。その意味では誰よりも二代王であられる亨進様を愛さなければならない、つまり第一に考え、最も大切なお方であられ、どこまでも従い、一体となりたいの願うお方であるということです。

そして、一体となっていなかったことを悔い改める必要があるでしょう。何を悔い改めるのでしょうか?

それは一番にイエス様のような文先生のような愛を持っていない、足らない私を悔い改めてお目にかかれることが大切であると思うのです。

そして、今からでもそのような無償の愛を与えてくださいと悔い改めの祈りをして、またそのような愛を絞り出しながら、神様へのとりなしの愛を受けましょう。日本や韓国に残り、また二代王に会えない方も同じ気持ちで過ごしましょう。

なぜ悔い改めてお会いするのでしょうか?それは自分のためでもあり、また、イエス様が味あわれた悲しい気持ちを気持ちを二代王になるべく与えないよう、本当に申し訳ないとお祈りする気持ちでお会いすれば、きっと恵みを大きいのではないかと思うのです。

悔い改めの気持でお会いし、お会いした全員に大きな恵みと癒しが与えられますように心からお祈り申し上げます。

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