天一国の扉を開ける必須の「鉄の杖」とは?悲しい歴史の終止符を打つには。
私達の幸福の基はどこにあるのでしょうか?幸福の定義は人それぞれですが、メシアを知ったものとしてはメシアのとともに生きる、メシアの願いの中に生きるのが最優先することが最もしあわせのことであると思います。
しかし、それは常に楽しいことばかりではなく辛いことや悲しいことが多いのも事実です。
真の父が行かれた道は苦難の道であり、万苦の王者、栄光の勝者のお姿でした。
その弟子であり、どんなに不器用で、幼くともついていく身もやはりその程度の差こそあれそれに近いことは歴史の知るところです。
真の父が行かれた道をその何千分の一、何万分の一、何百万分の一であっても同じ道を行くのが、そのしもべ(忠臣)であり、その弟子であり、その息子娘の道ではないかと思います。
それは表面的には悲惨な道かもしれませんが、最も幸福な道でもあります。
真の父自身が、神様が最も偉大な祝福の道をあげようと言われて行った道には、最も悲惨なところが待っていたと語られました。
777双の祝福があった時だったと思いますが、これからは祝福家の真の愛の因縁で結ばれた家庭の姿を見せて伝道する時代が来たのだと感動的なみ言葉を語られたすぐその数日後には、幼い子供を置いて、開拓伝道を命令されたのではないでしょうか?
天一国を実体化する時が近づいたこの時、実体化するのに必要なものが「鉄の杖」と聞いて、反対の声をあげるとしたら、一体何を学んでこられたのですかとお聞きしたくなります。
とても胸の痛い話です。自分の気にいる都合の良い話ばかりを好まれてきたのでしょうか?
具体的な話として武器を手にすることが天国行きの必須であるということが信仰の真髄として受け入れなければならないことが事実として迫った時、悲惨な現実となったのかもしれません。
それは私もわかります。しかし、人間堕落の結果、悪が存在し、悪と闘うことが宿命であるのが神様の側に立つ真実です。
それを避けるとすれば、悪と闘うことができません。
北朝鮮のような国に核攻撃で脅された時、言うなりになるほかありません。
そんなことは政府や軍やアメリカや勝共といった専門家に任せておけば良いとお考えでしょうか?
何があっても主人の立場、王の立場を守ろうとすれば、先頭に立つ意思を示さなくてどうして人類に先駆けて地上に天獄を築くものになれるでしょうか?
尻込みをすれば、専門家達のしもべになるほかありません。
王冠を被り、王様として生きるのであれば、その覚悟がかならず必要です。
王冠をつくり、それを被ることはそれにふさわしい覚悟が要ることは想定できます。
サタンから狙われる位置であるからです。サタンから解放される強い意思が必要であると思います。
みことばを受け、祝福を受け、天国に行くことを素直に受け入れて喜ぶ姿を見ることは神様にとってもまさに喜ばしいことに違いありません。
それ無くして復帰の道がありません。
しかし、失敗する可能性もあるのです。武器を持った時、使い方を誤り、失敗するかもしれません。
しかし、それを恐れて所有しなければ、国の主権を神様のもとに取り戻すことはできないとはっきりと知ったのです。
人類歴史の悲惨さをよく知っているならば、その終着点、帰結点、に対して責任を持って決着をつけねばなりません。
アダムのエバの堕落以来の悲惨な歴史に終止符を打つ勇気を持たねばなりません。
繰り返してはならない歴史です。本来、武器を使用しなくて解決できなければならないのですが、サタンが悪が、武器を所有している以上、所有権の転換をしなければならない、それは避けて通ることのできない道です。
それはアダムとエバが結婚に失敗したので、結婚を通してしか解決の道がないのと同じです。
結婚に失敗した人間始祖の罪を清算するにはどんなに悲惨立場からの復帰であったとしても男と女が結婚を通して蕩減復帰するしかありません。
それしか道がないのです。
武器によって戦争によって悲惨な人類歴史が繰り返されてきたのてすから、その悲劇を解決する道も、武器を手にして、戦争の悲惨さを主管し、解決を主導できなければなりません。
個人や家庭が悪と闘う時、最低でも必要な武器があります。
日本でも戦国時代や江戸時代くらい前までは刀に象徴されました。
刀は武士(武人)の魂でした。
なぜ人殺しの道具が武士の魂だったのでしょうか?
なぜ刀を持った武士だけが、支配階級だったのでしょうか?
それほど野蛮な時代であったと単純に言えるでしょうか?
私は高校時代、剣道を部活でしていましたが、心を磨くことが、大切であることを教えられました。もちろん未熟な者でしたが。
ましてや真剣を扱うにはさらに心を磨くことが求められると思いました。
なぜでしょう?それは人殺しに使う武器は心を磨いて正しい心を持った人間が扱わなければならないことが運命付けられているからです。
江戸時代、武士が武士でないものから侮辱を受けた時、、斬り捨て御免と相手を斬り殺すことが許されていました。
しかし、そのような事件は滅多におこなわれることはありませんでした。
実際にもし起これば大変な事件とみなされ、不祥事とされる時代でもあったのです。
つまり、滅多に抜かれることのない人殺しとしての武器が武士の魂としての「刀」でした。
それを扱うことができてこそ武士の扱いを受け、その誇りを持つことをできるのです。
天一国の主人は当然、現代の「刀」を所有し、それをきちんと扱えなければならないと神様が明言されたのです。
それに異を唱えることができるでしょうか?
二代王が日本の刀を抜き、武士を演じられているのご覧になった時、お遊びをしていると思われたのでしょうか?
もちろん昔の武士の中にも出来損ないの失敗者もいたでしょうし、現代の韓国にも、軍隊の中で、暴発して、上司や同僚を撃ち殺す者も出てきます。
それは確かに取り返すことのできない事件です。
アダムとエバの失敗も取り返すことのできない大事件でしたが、現代においては不倫もある意味取り返すことのできないことですが、殺人ほどの扱いはされていません。
現代において最も思い罪は殺人です。
ですから、この武器を主管できないとすれば、天国で最も重い罪である、不倫などの性的堕落を防ぐこともできないでしょう。
武器を主管できることは天国建設の実体的な出発の位置に立つと言えば、その通りであると思います。「鉄の杖」は天一国の扉を開ける必須の文字通り「杖」なので、時間がかかってもよく議論して納得してから前に進むべきでしょう。疑問な点はお互いよく話あって整理して考えてみましょう。昨夜も前から知り合いのサンクチュアリのある責任者から、お電話をいただきました。ご懸念の点はよく理解していますが、こうではないですかといろいろご説明するとなるほどというところとまだまだ不安な面もお持ちであるとは思いますが、また電話しますと言われました。
電話などでお問い合わせください。その心配やご懸念もできるだけ共有しながら、議論を進めることができればと思います。
拙い者が大それた言い方をしましたが、困っておられる神様の事情を垣間見て、申し上げないわけにはいきませんでした。
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黒頭巾こと為貞 俊郎(ためさだ としお)