キリスト教講座。誌上説教。「探し出された子羊」
有名な聖句を取り上げます。タイトルは「探し出された子羊」(これは礼拝で取り上げていません)です。
聖書拝読。
ルカの福音書15章4節~7節
15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
前回取り上げた、キリストへの愛の証でもある十字架の話をしました。
しかし、もちろん私たちは常に信仰に燃えていることは難しいし、それは堕落人間から復帰途上にあるのでスカラ、つまり罪人であるわけですから、様々な苦しみから逃れることはできません。
時に孤独になったり、惨めになったり、寂しくなったり、また逆に傲慢になったり、高ぶってしまって自分を見失ってしまったりします。
本当の自分はどこに行ったのだろうと探しあぐねたりします。
その時自分をどんなに分析してみてもやはり堕落性(罪人の性格)しかない自分、つまりは自己中心であつたり、自分にしか感心がなく、心を閉じたりしてみます。
キルケゴールの言葉を待つまでもなく、結局自分とは自分と誰かの関係性の中に本当の自分がいる(自分の本当の存在=実存)があることに気がつきます。
例えば家族の中で本当の自分の居場所があることを実感したりするということです。
その家族のさらに根っこは?というと(先祖もそうですが、)それは創造主につきあたります。
創造主(神=GOD)になります。私たちの霊肉の真なる親です。生命と愛の根源です。
親や先祖という肉親を通して私たちは生まれますが、肉親の親からだけで生まれるのではなく、創造主が親を通して私たちを産んでくださいました。
そして時間、空間を超えて、いつでもどこでもおられて、心(霊)の中に入って来られるのです。
しかし、神さまは肉体をお持ちではないため、感じることはあってもそれほどまで実体的、具体的とならないのが普通です。
特に罪人である(堕落性や罪の多いから)私たちにとって必ずしも神さまがいつも近いとは限りません。
真の親、真の師、真の主人である神さまを見失う私たちを抱きかかえてくださるのが人の身体となられた救い主イエスです。
彼が探しに来られるのです。
私たちが必死に探すならば、求めるならば、見出してくださる、答えてくださる、それが救い主です。
私たちは自分が迷ってしまった1匹の羊のごとく、主人である羊飼いがみつけだしてくたさることを待っているのです。
時間空間を超えて探し出しに来られるのです。
ですから、この聖句を見ると私の心には平安が訪れます。
私たち一人ひとりは探し出された子羊なのです。
生けるキリストは渡したの居場所を知っておられます。私の真の居場所はいけるキリストの懐の中です。
それがイエスキリストであり、再臨主としてこられた文鮮明師に他ならないのです。
私には文鮮明師がすでに亡くなられましたが、私たち一人ひとりを訪ねるために時間、空間を超える存在になられたのだとさえ思えるのです。
私はイエスキリストの再臨であられる文鮮明師とともに終生、また永遠に生きたいと願っています。
そうなるためにどれほど探し出されなければならないでしょうか?
そう常に一緒で居られるように精誠を込めた生活ができたなら!と思います。
羊と羊飼いのように、深く結びた関係でなければならず、また、迷い込んでしまったことを本当に反省して、悔い改めなければなりません。
悔い改めとは従順な子羊に戻ることを意味しています。そこでひつじである、真の父母、真の師、真の主人であるイエスキリスト、再臨主である文鮮明と再び関係が結ばれて、本来ならの自分をとりもどすことができます。
つまり心の平安がもたらされるのです。
アージュ(アーメン)