日曜礼拝(5月27日)をしました。私たちは永遠の命(霊人体)を与えられました。
誌上説教。「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ローマ人への手紙 6:23)
五月二十七日(日曜日)月例の礼拝を行いました。
直前になって欠席者が続出して四名の参加者となりましたが、礼拝は必ずやるようにしています。
久しぶりの方もお見えになり、その方ために恩恵が与えられました。それでは内容を紹介します。
人は自分のあるいは家族や自分の周りの課題で本当に苦しい時、苦しいことがあります。
それまで神様が身近に感じてきたことも無意味に思えるほど自分が惨めに思えたり、孤独になったり、辛さのあまり生きることすら耐えられなくなりそうに思えることもあります。
これまでの信仰生活はなんだったのだろうと感じたりします。
神様がおられることも救い主が来られていることもわかっているけれども自分の課題の困難さに打ちひしがれて、自分の人生は失敗だった。
こんな自分は生まれてきたことも生きていることも価値がない、存在していること自体疎ましく思えるようにすらなってしまいます。
そうです。その答えは私たちは知っています。私たちは原罪を始め、遺伝的罪、連帯的罪、自犯罪と言った罪びととして生まれてきました。
そのことを自覚する以外にありません。
たとえ、原罪が清算されたとしても、先祖が解放されたとしても、人類全体の罪から解放されません。
聖書には罪からくる報酬は死であるとあります。
私は罪びととして生まれて、神様からは遠い存在であるとあるいは無価値な存在であると自覚せざるを得ません。
それは真の父母様の勝利を相続する真の息子、娘になったとしてもあまりに無力な自分の姿に絶望してしまうことがあります。
たとえ、亨進様が真の父母様の息子であられたとしても息子でありながら、真の父母様をメシアとして思えなかったりされたりした時期もあり、親を悲しませてきたと自覚された時、深く罪びととご自身のことを思えて来られたと語られました。ましてや私たちは原罪など先祖の罪や多くの課題を持って生まれてきました。
しかし、神様と私の関係は、親である創造主と息子であるその相続者の関係です。
神様の息子、娘という立場は永遠に変わらない関係です。
自分に絶望しても自分はやはり永遠の存在です。
なぜなら、神様が私を自分の子供として、つまり永遠の魂を与えたからです。
簡単に言うと、自分自身や自分の人生がどんなに嫌でも、嫌いでも自分魂(霊人体)を消すことはできません。
サタンは神様が私たちに永遠の魂を与えたことを知られることを恐れています。
こんな自分には価値がない、生きていても仕方ない、あるいはサンクチュアリに来てもとか、信仰生活をしても、活動してもとか様々に自分に意味がないかのように私たちをそそのかせます。
そして投げやりにさせたり、自暴自棄にさせたり、落胆させたり、希望を感じられなくさせたりします。
私がどんなに価値がないように思えても、私は神様から永遠の命を与えられた神様の子女なのです。
私がそうであるようにあなたもそうなのです。
あなた方すべての人がそうなのです。
そうであれば、すべてを受け入れてまた新しく歩み始めることができます。
永遠に生きる神様は私たちの永遠の親です。
その姿を真の父母様という具体的な形で見せてくださり、その指導とみことばが残されています。
また、その後継者を残され、直接その後継者である方と共におられ、またその偉業が相続されています。
原罪の清算、先祖の解放、その偉業に加担することで、その勝利して得られた恩恵を受ける立場に立っています。
それを実感し、体得するための自由と責任が与えられています。
私たちはそれを実感するたびごとに生きる喜びがあるれるのです。
魂が喜び打ち震えるのです。
そして神様とさらに共にいたいありたいと願うのです。
私たちは永遠に滅びることのない魂(霊人体)かあるのです。その霊人体がどのように生きるかは地上でどのように生きたかによって決定します。
霊界では基本的には霊人体が生まれ変わったり、成長したりすることがありません。
罪があったり、課題が残れば、すべて子孫に託されます。そしてそのことが子孫の課題のして突きつけられます。子孫が解決してくれることでしか霊界での霊人 変わることができません。
それを思えば、簡単にできなかったということができません。
人類の真の父母様ですら、天一国実現の課題は三代王権で実現すべく共助しておられます。
それはたとえ本人が天国に入ることができる方であったとしても、全人類の親の立場で、人類を救うために地上に共助されておられます。
その愛の保護圏にいる私たちは幸せなのです。