誌上説教、7月30日。「信仰とは?」
昨日の日曜日は娘の婿さんが来るというので、片付けから、掃除して午後から夜を過ごしてしまったので何もできないままでしたが、
今日は仕事を前に久しぶりにブログの更新をします。まずはブログでの誌上説教です。
○聖書拝読。
ヘブル人への手紙 11章1節「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
○説教。「 信仰はとは?望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認すること。」
先ほどの聖句を別の訳では次のようになっています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
信仰とは、信仰生活とは、と自問してみると人によって様々な回答というよりも感想が返ってくると思います。
信仰ですから神様を信じることから始まるのは皆同じかなとは思います。
それでは神様を信じるのはなぜでしょうか?
私が知り合いを伝道しようとした時、神様がいるとして一体何が変わるのかと聞かれたことがあってその時上手く答えらなかった記憶があります。
神様を信じるのは神様が私たちに与えた約束を信じることです。それでは神様との約束の中身をどのように理解しているかが問題です。
約束ですから、一方的なものではないわけです。それは私が神様の前に決意した内容が中心となります。
その決意以上のものが与えられるかとしれませんが、基本的には人が考えもしない、決意もしないことに干渉されることはないと言われています。
その決意が正しいかどうかも問題です。正しくなければ神様はやはり干渉されません。
そしてその決意が大きければ、決意が実現されるまでの期間も長いものとなります。
そしてそれが実現されるまで、信じることことを変えず忍耐し、最後まで、耐え忍ぶのが信仰です。
さらに神様の願いを理解するならば、それか自分自身の本心からの願いであることを確認してそれを実現しようとします。
それが信仰であると私は思います。
そのためにある生活が信仰生活ということになります。
すると私たちには大小様々なな願いがあることに気づきます。
それはそうですが、神様が今最も願っていることを優先しながら、神様との信頼関係を築くことも大切なことです。
それは楽なことではないので苦しみながら、でも神様と共に歩むので喜んで、なおかつ感謝して歩むのです。
「最後まで耐え忍ぶ者が救われる。」(マタイによる福音書 10章22節)
恋愛や男女の関係でもそうですが、相手を信じきれない場合、切実であればあるほど苦しい事は多いのです。
神様はどうでしょう?唯一にして善なる絶対的存在である神様。人類の親である創造者である神様が約束を捨てる方ではない、神様ご自身こそ絶対的に私たちを信じておられるのです。