ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

いつまで働くの。ずっと働くことは素晴らしいことだよ。きっと。

ここでも何回が取り上げていますが、現在においても、また将来においてはさらに生活の不安は私たちシックには相当程度あると思います。

もちろん、信仰的観点からいろいろ言うことも可能でしょうが、今日は別の観点から考えてみたいと思います。

私たちの祝福は6500双前後から、国際祝福が当たり前になって日本の女性は世界中の貧しい国々にも当然のごとくお嫁に行ってとんでもない苦労をしてあるようです。

お隣の韓国にもたくさんの主に女性が嫁いで、かなりの苦労を今もしておられるでしょう。

その中で、韓国のお嫁さん不足の農村部へ嫁がれた日本女性も多いのです。

それでいろいろ騒がれたり大変な苦労をされた方も多くおられるでしょう。

また、嫁として舅、姑に仕えて、模範的な主婦として、政府なり自治体から功労賞をいただいた日本女性も多いと聞いています。

文鮮明師も韓国農村のお嫁さん対策に貢献するということを否定されておられませんでした。

今となってはそれでも崩れていく韓国社会のため歯止めになれたのかはわかりませんが、祝福家庭には様々な使命があり、その国や社会に貢献することを願われていることも痛感します。

私たちの統一運動は全体としてみれば狭義の神さまの摂理をいかに進めるかはもちろんですが、同時にまた世のため、人のために尽くすという観点も重要であると思います。

もちろん、私たちの力で世の中を変えるというほどのものではないと承知していますが、たとえば、さきほどの話を例にとって考えてみたいと思います。 韓国ではか日本以上に学歴社会ですし、またソウル一局集中の弊害が指摘されている中で、農村には若者が止まりにくく、お嫁さん不足は深刻になっていました。

しかし、長男は両親を置いていくわけにはなかなかいかないので、親と長男が残されます。

さほど信仰がない家でも、お嫁さんが来てくれるならと入会して、日本人の女性を迎え入れました。

そのように貢献して、家で、地域で、日本人として苦労されて、ひいては国と社会に尽くしてこられました。

その深刻な立場は、やがていつか大きな証となるでしょう。


翻って日本は高齢化社会を向かって深刻な将来が待っています。

景気が良くなりにくいのも最近では業種によっては深刻な人手不足が原因とまで言われています。

その状況を変える道の一つに高齢者の就業促進が期待されています。

60代はもちろん70になっても働ける方は働いてくれれば、社会が助かるというわけです。


そこで、4月13日の日経新聞には「高齢者の就業促進」というタイトルで、高齢者の就業が増えれば、一石四鳥の効果があると書いてあります。


その要点に感想を加えてみました。

第1に、働き手が増えるので当然のことながら人手不足が緩和されるということです。

私もかなりの人手不足の業界に勤務しています。

第2に年金の支給年齢を引き上げるなどの社会保障の負担を弱めることの効果が期待されて、社会保障改革を進められます。

第3に高齢者の方々が働けば、それだけその高齢者家庭の負担が軽減されて、将来不安も多少なりとも軽くなります。

去年私は手を骨折して2ヶ月ほど働けませんでした。転職もしました。もしそのまま働けない身体になっていたら、子供たち家族の負担は重くなり、また将来の不安も大きかったでしょう。

第4に医療費の削減にも貢献します。高齢者の方の労働参加率の高い地域つまり、お年寄りの働き手が多い地域は高齢者一人あたりの医療費が少ないという関係にあるということです。働いているお年寄りが多ければ、医療費も少なくて済むということです。


私たちが高齢になっても社会の中でいろいろな分野で働いて、あの年でもああいう風に働いているよ、という姿を地域な勤め先の内外で見せてあげて、世の中に刺激を与え、お年寄りの働く姿に好印象を与えてその雇用を促進することも広い意味では世のため人のためでしょう。

高齢者でも働いているのが普通の社会となれるよう、刺激的な生活を送ることが、私たちの生活も刺激的になるでしょう。

健康に気をつけて、明るく、周りを和ませ、良い潤滑油となりましょう。


"為に生きる"ことは言葉としてそれを知っていることではなくて、どのような生活、立場であっても実践できるし、そのように生きられるものになりたいものです。

社会の中で先頭を切ってやってみましょう!

日本サッカー代表監督、ハリルホジッチ氏の解任について。日本人の長所と短所とは?

今日はサッカーの話題です。私は子供のころよりサッカーよりも野球だったので、サッカーのことはあまりわからないのですが、今日ふと日本代表監督の更迭問題のことが気になりました。

最近、日本代表の試合結果が振るわないのは知っていましたが、ついに代表監督のハリルホジッチ氏が解任されて大きな話題となりました。

後任は久しぶりに日本人である西野朗氏になりました。

W杯直前の解任劇は驚きをもって報道されましたが、その解任理由に関心がありました。

つまりハリルホジッチ監督が求めるサッカースタイルと日本選手が得意とするサッカースタイルが食い違っていて、その戦術に対する不満が溜まってチームに亀裂が走っていると判断されたためのようです。

本当に苦渋の判断だったのだと思います。


ハリルホジッチ監督は旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身です。

選手としては主にフランスで活躍し、クラブ監督としてはフランス、モロッコ、クロアチアでリーグ優勝し、欧州、アフリカ、中東といったサッカースタイルの異なる国で指揮をとり、更にはタイトルを獲得して、フランスでの活躍ではフランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を授与されています。

また、国のチームを率いる代表監督としてはコートジボワールやアルジェリア、といったアフリカの監督を務めていた実績があります。

これまでの実績としてはまず申し分のない監督のようですが、なぜ、突然の解任となったのでしょうか?

サッカーは詳しくないので、それは語れないのですが、いろいろ考えさせられることがあるのです。

今回の解任劇が衝撃が走ったのはとんでもない迷走をしているイメージがあるからです。

私が思うに日本というチームがどうすれば良い機能を発揮するのか、あるいは将来に向けての本当に強いチームになれるのかという長短期両面で見えにくくなってしまったことにあります。

日本サッカー協会の田島協会長は今回の解任は、目前(6月)に迫ったロシアW杯に勝つ可能性が1%でも2%でも大きくすることだとしましたが、直前での監督交代は過去の例を見るまでもなく、良い結果を出すことはかなり困難のようです。


私はサッカーは代表チームの試合はよく見ます。

他の強豪国と比べても見劣りしないのは、細かいパス回しやら緊密な連携プレーといった組織力です。

足らないのは個人の突破力、瞬発力とか、一対一の競い合いの強さといった個々の力が足りません。

しかし、それは仕方ない面だと思ってきました。

欧州勢との体格の違い、パワーの違い、アフリカ勢の身体のバネ、瞬発力といった身体能力の違いはどうしようもない面があるからです。

そこで、日本サッカーの長所である細かいパス回しによる球持ちの良さを生かしたプレースタイルの延長が良いのだろうと思っていました。

ところが、ハリルホジッチ監督は、球持ちの良さといった横の細かいパス回しから相手ディフェンダーの隙を狙ったり、守備陣を崩したりするこれまでのスタイルよりも早い縦パスや個々の突破力を強調してそのやり方に合う選手を登用していくので、次第に不協和音が出て、機能しなくなってきたというわけです。

結果として日本の良さが発揮できなくなったということなのですが、よくサッカーの文化が理解できないので、そのことに対してどう考えて良いかはわかりません。

しかし、たとえ優秀な実績のある監督を迎えたとしても十分にチームの戦略を協会内部で練ったりしないのだろうかということは疑問の一つです。

ハリルホジッチ監督はアフリカの代表監督をしてきたこともあり、身体能力の高いアフリカサッカーのスタイルを日本に導入しようとしたのではないかという意見もありますが、どちらかといえば、その国なりのスタイルを重視する人だとも言われてきた監督でもあるようです。

日本のサッカーを研究した結果、どうしても個人の力を高めてより個々のレベルを上げて、チームの殻を打ち破って日本をより次元の高いチームをしたかったのだという見方もできます。

これは大変難しい問題です。


なぜこれを取りあげるというと、長所も短所も日本という国の特殊性をどう見るかという問題になるからです。

三年前、の八月でしたか、サンクチュアリにおいて、日本サンクチュアリとサイバーサンクチュアリなどが複数、二代目王様によって公認を受けました。

なぜ複数の団体を公認されるのか理解できない日本のメンバーが多かったと聞いています。

決められた中心に従えないメンバーの方がおかしいのであって中心と合わないメンバーが別の組織を作るというのはおかしいという考えだろうと思います。

それに対して二代目王様や国進様は二つ以上のさまざまな団体ができて、それぞれ、くっついたり、離れたりという離合集散して二年や三年では決着しないだろうと語られたというのです。

そのようなことが語られたと発表する人もあれば、そんなことを言われるはずがない、それは悪意を持って捏造したのだと断言する人もいました。

私は当時責任者の一人として、収拾するために、両方に中立で、かつアメリカでそれが語られたその場にいてその時の発言を聞いた方を招いて会議を開いて決着しました。

もちろん英語で語られたのですが、離合集散という日本語の訳がぴったりとすることばであり、そのご発言の翻訳は全体的にも正確であると証言されました。

またこうした内容は、それ以降もその趣旨に沿ったご発言が二代目王様からもあったように理解しています。

そのような騒ぎが起きたのも二代目王様あるいは国進様があえてなかなか日本人には理解しがたい方針を出されたことにあります。

実は私はそのご発言の真意やご発言の理由をある程度はわかっているつもりですが、あくまで推測の域ですので言いません。

また当たっていたとして、それを語ったところで良い結果にすぐになるとも思えないからです。

サッカーではハリルホジッチ監督は日本の弱点を知って敢えて意識を変えようとしたのでしょうか?

しかし結果としてはそれは逆風を受けて解任に至りました。

サッカーのことですのでそのまま日本の組織論とかに当てはまるのかはわかりません。

またわかったとしても日本を変える力が自分にあるとも思ってはいません。

このような話はまずほとんどの方には縁のない関係のない話になりますし、また本当にわかっている人は絶望感に溢れています。

所詮、日本人には無理だ、ということです。


私は半分同意しますが、後の半分は違うのではないかと思っています。

たくさんの団体があったり、分かれているのは弊害があったり、マイナス面が多いと思っておられる方も多いことでしょう。

しかし、私はとても二、三年では収拾しないだろうということですが、やがて解決の時が来ると言われているとも解釈できます。

その解決とはなんでしょうか?

私はサイバーの後を継いでその流れの中で自由サンクチュアリ連合を名乗っていますが、どのようなスタンスでやっていくかを考えてきました。

江利川会長とも仲良くしていただいてきましたので、実はそのことを深くお話をしたいと考えてお話の申し込みをしましたが、お忙しいご様子で、またあまり差し迫ったお考えはないご様子でした。

私はこの課題を、自分の課題としてきました。

明確な答えが出るまではやはり自由サンクチュアリ連合とかなんとかという立場でやるしかないのかなと思います。

二代目王様と国進様から与えられたこの日本の課題に取り組むのが、自分に課せられた責任であると感じてきたからです。

サッカーというスポーツの軽い話題から入りましたが、いかがだったでしょうか?

だいぶ重たいテーマになってしまいました。

昨日は99匹と迷った1匹の羊の話をしました。迷った羊の飼い主はイエスキリストであり、救い主です。

近代の自我の出発は神(イエス)と自分との関係の確立が出発点です。

二代目王様は韓国、日本にはキリスト教の伝統がないと語られています。

それは飼い主を再び見誤った羊となる可能性が高いことを意味していますし、そのことは霊能者について行ったり、半ば盲目的に目上の人について行ったらする現象となって現れます。

それはキリストと自分とにおいて確立された関係が弱く、真の個の確立が弱いのです。

(そしてその延長には千年王国の最期のゴクとマゴグについていく海の砂に子孫が入ってしまうでしょう。)

キリスト教講座。誌上説教。「探し出された子羊」

有名な聖句を取り上げます。タイトルは「探し出された子羊」(これは礼拝で取り上げていません)です。

聖書拝読。

ルカの福音書15章4節~7節

15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、

15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。


前回取り上げた、キリストへの愛の証でもある十字架の話をしました。

しかし、もちろん私たちは常に信仰に燃えていることは難しいし、それは堕落人間から復帰途上にあるのでスカラ、つまり罪人であるわけですから、様々な苦しみから逃れることはできません。

時に孤独になったり、惨めになったり、寂しくなったり、また逆に傲慢になったり、高ぶってしまって自分を見失ってしまったりします。

本当の自分はどこに行ったのだろうと探しあぐねたりします。

その時自分をどんなに分析してみてもやはり堕落性(罪人の性格)しかない自分、つまりは自己中心であつたり、自分にしか感心がなく、心を閉じたりしてみます。

キルケゴールの言葉を待つまでもなく、結局自分とは自分と誰かの関係性の中に本当の自分がいる(自分の本当の存在=実存)があることに気がつきます。

例えば家族の中で本当の自分の居場所があることを実感したりするということです。

その家族のさらに根っこは?というと(先祖もそうですが、)それは創造主につきあたります。

創造主(神=GOD)になります。私たちの霊肉の真なる親です。生命と愛の根源です。

親や先祖という肉親を通して私たちは生まれますが、肉親の親からだけで生まれるのではなく、創造主が親を通して私たちを産んでくださいました。

そして時間、空間を超えて、いつでもどこでもおられて、心(霊)の中に入って来られるのです。

しかし、神さまは肉体をお持ちではないため、感じることはあってもそれほどまで実体的、具体的とならないのが普通です。

特に罪人である(堕落性や罪の多いから)私たちにとって必ずしも神さまがいつも近いとは限りません。

真の親、真の師、真の主人である神さまを見失う私たちを抱きかかえてくださるのが人の身体となられた救い主イエスです。

彼が探しに来られるのです。

私たちが必死に探すならば、求めるならば、見出してくださる、答えてくださる、それが救い主です。

私たちは自分が迷ってしまった1匹の羊のごとく、主人である羊飼いがみつけだしてくたさることを待っているのです。

時間空間を超えて探し出しに来られるのです。

ですから、この聖句を見ると私の心には平安が訪れます。

私たち一人ひとりは探し出された子羊なのです。

生けるキリストは渡したの居場所を知っておられます。私の真の居場所はいけるキリストの懐の中です。

それがイエスキリストであり、再臨主としてこられた文鮮明師に他ならないのです。

私には文鮮明師がすでに亡くなられましたが、私たち一人ひとりを訪ねるために時間、空間を超える存在になられたのだとさえ思えるのです。

私はイエスキリストの再臨であられる文鮮明師とともに終生、また永遠に生きたいと願っています。

そうなるためにどれほど探し出されなければならないでしょうか?

そう常に一緒で居られるように精誠を込めた生活ができたなら!と思います。

羊と羊飼いのように、深く結びた関係でなければならず、また、迷い込んでしまったことを本当に反省して、悔い改めなければなりません。

悔い改めとは従順な子羊に戻ることを意味しています。そこでひつじである、真の父母、真の師、真の主人であるイエスキリスト、再臨主である文鮮明と再び関係が結ばれて、本来ならの自分をとりもどすことができます。

つまり心の平安がもたらされるのです。

アージュ(アーメン)