ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

韓オモ二の過ち。

真のお母様は最後の最後でその使命を終わられました。なんと残念なことでしょうか?どうすることもできないもどかしさと当惑と悲しさ、やり切れなさをひきずりながらも、新しい出発を決意し、覚悟する時を迎えました。私自身40年を超える信仰生活の中で、このように思いになることはありませんでした。


真のお母様はどうしてこのようになってしまわれたのか?もはや厳密に言うと真のお母様とお呼びすることすら不可能となりました。その位置は妍雅様に移りました。三代に延長されてしまいました。アブラハム、イサク、ヤコブの神と聖書にあるように真の父母様の王権は三代に延長され、真のご父母様、亨進様御夫妻、そして、信俊様とその将来の夫人に継がれました。本来、そのこと自体別に問題はなかったはずです。



しかし、真のお母様は亨進様をと離れ、さらに真のお父様の位置までも奪ってしまわれました。真のお父様の位置は亨進様が受け継ぎ、母子協助によりお支えする側に立たれなければなりませんでした。「亨進様の王冠」でも触れましたが、お父様の後継者としての位置は絶対であり、その位置に対して絶対的に侍る国進様の勝利こそこの真のご父母様の絶対王権の確立の最重要事項でした。



もし万一亨進様の身の上に何か重大な出来事が起こったとしてもその位置はそれを全面的に支えた国進様が窺うことはあり得ないということです。ですから三代が必要です。まだ幼い信俊様をどの様に支え、育てるかが問題です。その環境を求めて、亨進様は、アメリカの片田舎に住む決意をされました。


国進様の勝利がどれほど偉大でしょうか?亨進様の位置は絶対です。その位置は侵すことのできないものです。なぜか?善悪闘争歴史の全ての蕩減がかかっています。どれだけの血が権力闘争で流されてきたでしょうか?王統とは好むと好まざるに関わらずその様な運命を逃れられません。王の中の王である家系は人類歴史と無関係でしょうか?


亨進様はその様な戦いには向いていないと無関心でありたかったようです。しかし、お父様の後継者としての位置と責任を離れれば真のお父様がどれほど悲しむか。お父様の愛と期待に応えるしか道がないことを悟られました。宗教者としての静かな生活は許されませんでした。ですから、国進様はその様な弟を守るために「おまえが、血を流すことは耐えられない、それは私がやる」と決意されました。人にはその人それぞれ引き受ける役割があります。自己否定は自分がするものではなく天の願いを知り、それに殉ずることです。


結論を急ぎます。真のお母様、いえ、韓オモ二は第二の教主になられたならば、お父様の後継者の位置はみ言葉通り亨進様にお譲りにならねばなりませんでした。それを奪ったことは国進様が切り開いた王権の確立を台無しにされ、闘争歴史を繰り返す愚を犯されました。天一国憲法のもと最高委員会❓が後継者を決定する?それが原理的?⁇一体誰が、誰をを選ぶのか、派閥と多数派工作が永遠に続き、最高委員会の委員長や委員を巡っても幹部達の血みどろの戦いが続き、どうにもならない状態になり、やがて独裁者が現れ、判断力のない衆愚となっている信徒達に君臨することでしょう。何れにせよまず自分たちの操りやすい後継者を選ぶことから始まります。


真のお父様がどれほど悔しく思われるか?韓オモ二は失敗をされました。もはや後戻りはできません。


韓オモ二は本来、永遠の真のお母様です。二度と真のお母様は必要ありません。その勝利は確定しておられます。しかし、最後の最後で失敗されました。残された王権を中心とする使命と責任は妍雅様に移されたのです。

李 妍雅様は真の母の後継者であり、聖霊の実体です。

非常に残念なことに真のお母様は真のお母様としての権限を失っておられます。その後継者であるのは李妍雅ニムであり、聖霊実体としての使命を果たしておられます。このようなことは既に亨進様が話されておられますが、私が自分自身の体験として実感しております。もちろん亨進様のお話がなければ、よくわからなかったでしょうし、そのような実感も持てなかったでしょう。




しかし、今はそのことが明確に分かるようになりました。正直言ってお母様にある程度同 情しているところがあり、理解できるなあと思いました。それは、亨進様がまだ幼いころに、泣いておられるお母様に駆け寄り、お父様はひどすぎますと一緒に泣かれたようにお母様の苦労に限りなく同情してしまう面があったのだろうと思います。




しかし、亨進様はお父様がメシヤであることを疑いもなく確信されるようになりました。幼いころはお父様が本当にメシヤなのかと信じていなかったと振り返っておられます。そのことがどれほどお父様の心の痛みとなっていたか、と自分は罪人であったと激しく悔い改めておられるのです。私は幼いころのご子女様方がお父様をメシヤ、と信じていなかったのは当然過ぎるくらい当然であったと思います。それほどお父様の家庭のご事情はあまりにも悲惨でした。




そのことは今回触れませんが、その事情を乗り越えてお父様をメシヤ、と確信されるようになられたことが大変な勝利であると思います。もちろんお父様の真の愛に触れ、その価値を悟られ、またご自身の血統がどれほどの犠牲の末のものか、その貴重さをご理解されていかれたのでしょう。そしてお母様の苦難のご路程を身近で知り抜いてご父母様の価値の偉大さを誰よりも深くご存じでおられます。




同じような試練が我々になかったそれだけでもどれほど感謝でしょうか?サタンの全てに打ち勝たれたと思います。お母様は最後の最後でサタンは誘惑を退けることができませんでした。そのことで一番深く心痛めておられるのは真のお父様であり、そして亨進様です。



あのアブラハムが鳩を裂かず、供え物の献祭に失敗したようにもはや三代にわたって延長せざるを得なくなりました。ヨナニムはその使命を継承し信俊ニムを支えてお父様、亨進様、の後継者として見守り育てられます。お母様が14人のご子女様を産み育てられることが最大の使命であられたように。


メシヤの使命の継承者はお父様の決められた、血統的正統な亨進様が相続されました。お母様は真の母としての使命的位置を離れしまわれ、聖霊の実体ではないのです。



そして、このところ平和連合、統一教会から脱会してサンクチュアリィ教会に移ったことが話題となっています。そして脱会した方々が口々に気分が良い、晴々と、生き生きと証ししています。それは悪い環境から開放された、とかあるいは悪い夫と離婚した妻の清々とした気持ちと取られるかもしれませんが、そういうことではありません。聖霊の働かないところから、聖霊の役事を受けられるところに来たことによるものです。サムライ、というだけでは悲愴感が漂いますよね。



亨進様、妍雅様に感謝を捧げましょう。

第ニ代王様、亨進様の王冠。

プログ村のみなさん!亨進様の王冠を被る戴冠の儀式をご覧になられていかがだったでしょうか?王様のましてや王の王の戴冠ともなるとマイナスのイメージがあるかもしれません。権威ぶった姿に見えたり、やたら権力を持ちそうな姿に見えたり、豪華な暮らしを欲したいそうな感じでしょうか。



しかし、考えてみればイエス様イスラエルの

王の王としてこられました。十字架にかかられたので仕方なくその座を奪われました。再臨主が地上でそれを実現しなければならないのですが、お父様もその勝利権は持たれましたが、実体としてはなされておられません。ですから、その後継者が王の王にならねばなりませんし、また王の王は勝利した後も継承していかねばなりません。


亨進様は権威ぶった王様とは程遠いお人柄であることはよく知られたことです。むしろ王様という位置や意識はお嫌いだとお思います。今回の聖和三周年のサンクチュアリィ教会での式典での戴冠も当初は嫌がっておられたのですが、兄の国進様に諭されて、王冠を受けられ王衣を着られました。


国進様はカインの中のカインの道を完全に勝利されてこられました。真のお父様が亨進様を後継者として認定して祝福して愛されるのを見られて、自分が愛されていると実感して泣かれたのです。サタンはどれほど悔しく思っているでしょうか?



王のマイナスのイメージは亨進様のお姿とは被りません。むしろそのイメージは現在の教会、天正宮にあります。立派な王宮や建物、高級車、きらびやかな演出、権威ばった姿に、権力志向、さらにはお追徴、媚び、へつらい過度な持ち上げ、そのようなものが充満しています。それらは人間の芯である性根を腐らせ、意識を惑わせ、判断を狂わせます。



国進様は本性と真理で弟に屈服する道を選択されました。誰にも屈服することのない国進様でしたが、弟の亨進様には心から完全に屈服され、それはお父様が祝福される前からそうでなのです。そして全身全霊で弟を支え、勝利させようとされておられます。そのことをお母様も祝福されるべきでしたが。


王様は愛の王様です。権威や権力のそれではなく、お父様の愛の勝利に満たされた王様の愛の園です。お父様の愛を取り囲み、自己の意識もなく愛に酔い、歌い踊ります。そしてお父様が祝福してその愛の勝利の権限を後継者である亨進様に譲られたのです。その愛の権限を与え、お受けする儀式が王冠の戴冠式でした。



私達はお父様が私達全てに

亨進様を後継者としてお与えくださったことに心から感謝申し上げます。

亨進様にハレルヤ。真のお父様に永遠の億万歳を捧げます。