ttkzkn1610のブログ

今後ますます混乱し、崩壊の危機が迫る統一教会に対して快刀乱麻、収拾を目指します。本来の姿に再生させるには、自由闊達な議論のもと、各人の主体的判断による後継者の選択と真のメシア観の確立が最重要課題と確信しています。

硫黄島などが返還されて五十周年です。米国も朝鮮戦争の戦没者の遺骨返還が大きな課題ですが、日本人なら硫黄島の遺骨を忘れることはできません。

今年、硫黄島が米国から返還されて50周年になります。1994年、両陛下が硫黄島を訪問されたおり、皇后陛下は次の歌を読まれました。

「銀ネムの大木茂りゐていこの島に五十年(いそとせ)眠るみ魂悲しき」

銀ネムとは中南米を原産地とする亜熱帯の植物で、戦闘後、玉砕した2万一千名近くの日本兵が戦死し、そのほとんどは埋葬されることもなくその遺体の腐敗臭を除去するために米軍がタネを空中散布したと言われています。

その繁殖力のため、現在も銀ネムが生い茂る硫黄島となっているそうです。


「国のため重き務を果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

 「仇討たで野辺には朽ちじ吾はまた七度生れて矛を執らむぞ」

 「醜草の島に蔓るその時の皇国の行手一途に思ふ」


硫黄島守備司令官、栗林忠道中将の辞世の句です。


本日(7月14日)の毎日新聞の専門編集委員 青野 由利の記事「土記(どき)」などによれば、戦没者21900(概数)のうち遺骨収集ができたのが10410体、残る約11500近くもの遺骨が収集できていません。

ウィキペディアからの引用です。

〜引用開始〜

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦ま でにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦にお いて、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次大戦で最も人的損害を被った戦闘のひとつとなっ た。

(ウィキペディア)



組織的な戦闘が終わり島の大部分がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。

(中略)

その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏しており、アメリカ軍は投降を促した。生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降したが、拒否する日本兵もおり、アメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。

最後の生存者として、終戦から4年後の1949年(昭和24年)1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。海軍所属であった両名は千葉県出身の一等兵曹(38)と、岩手県出身の二等兵曹(25)であり、終戦後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。両名によると終戦から1年半が過ぎた頃に島内に駐在しているアメリカ兵が捨てたとおぼしき雑誌を拾ったところ、その雑誌に東京の不忍池でアメリカ兵と日本人女性が一緒にボートをこいでいるグラビア写真があるのを見つけた事により、日本が戦争に敗れた事に気付くと共に激しくショックを受けたと言う。この元日本兵2名は1月22日に羽田空港に帰国した。

その後、二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記を取りに戻りたい」とアメリカ軍に申し出て、同年5月7日に再び アメリカ軍機に乗って硫黄島へと戻った。ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」 と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。この二等兵曹は日本に帰国したあと周辺の者に「生きて返ってきて申し訳ない」「硫黄島へ日記を取りに行って見つ からなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていた事から自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察され た。

(ウィキペディアより)

〜引用終わり〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


今上陛下の御製。


硫黄島二首 
  精根を込め戦ひし人未だ 地下に眠りて島は悲しき
  戦火(いくさび)に焼かれし島に五十年(いそとせ)も 主なき蓖麻(ひま)は生ひ茂りゐぬ


合掌。

…… ………… ………

なお硫黄島の戦いと名将栗林忠道中将、並びに両陛下の硫黄島に関することをお知りになりたい方は次の一文を読まれるとわかりやすいと思います。

〜引用開始〜

栗林忠道と硫黄島の戦い(下)硫黄島の玉砕と両陛下


 

◆栗林兵団の玉砕

 栗林から最後の攻撃の電報を受けとった大本営は、以後連絡がとだえたので栗林以下全滅したものとして、硫黄島の失陥を発表した。そのとき大本営は、栗林の忠烈をたたえ大将に特進せしめた。

 ところが攻撃後も栗林らはなお生き抜き戦い続けていたのである。三月二十一日とだえたはずの電報が大本営に届いた。

 「十七日正午、予(私)は我が戦闘司令壕を出撃し、北部落の西側に歩兵第一四五連隊、玉名山地区、北地区、東地区および西地区の全生存将兵を集結し、目下戦闘を継続中なり。現在予の掌中に在る兵力四百名なり。

敵は我を包囲し、十八、十九両日戦車および火焔放射器をもって我に近接し来れり。特に爆薬を使用しつつ我が防空壕の入口に近迫せんとす。

敵線は我を去る二百ないし三百米にあり。戦車をもって攻撃しつつあり。

敵は拡声器をもって我に降伏を勧告せり。しかれどもわが将兵は一笑に付して相手にせず。

海軍司令部は十六日来りて我に合し、ともに戦闘中なり。

師団長以下、将兵敢闘中なり」

 次いで二十二日、今度こそ最後の電報が届いた。

 「我ら将兵は飲まず食わずの日を五日続けたり。しかれども敢闘精神は益々高潮しつつあり。最後の一瞬まで戦闘を続行せんとす……」

 一日でも長く抗戦せんとする栗林らの恐るべき闘志であった。ほとんど飲まず食わずの十日間余を経て、三月二十六日未明、栗林は硫黄島海軍司令官市丸利之助少将とともに四百名の残存将兵を率いて最後の出撃を決行した。その突撃直前において、栗林は生き残った者はあくまで持久戦を継続することを命じた。

 普通こうした最後の突撃の場合、指揮官はその前に自決するのだが、指揮官陣頭を信条としてきた栗林は、軍刀をふりかざし「進め、進め」と叫び先頭に立った。この日栗林らは一団となって米軍陣地を襲撃、全員壮烈きわまりなき戦死をとげたのである。栗林は敵弾をうけつつも尚前進したが、出血多量で手の自由がきかなくなり、部下に頭を撃ち抜かせた。かくして栗林兵団は、三十六日間を戦い抜き玉砕した。

 米軍は同日、硫黄島の占領を宣言してここに硫黄島の戦いは終った。

 日本軍は二万一千のうち二万名が戦死、残りは重傷を負って倒れ後に米軍に収容された。

 米軍の損害は海兵三個師団七万五千中、二万六千(内死者七千)、海軍を含めると二万八千余に達した。米軍は難戦苦闘の末ようやく日本軍を下したが、予期せぬこの膨大な犠牲に勝利感はほとんどなかった。

 

◆栗林を賛嘆する敵将

 米軍に比べあまりにも寡少貧弱な戦力のもと、後半にはほとんど食料なく水なく弾薬なき孤立無援の中で、日本軍が一ヶ月余り戦意衰えず、団結少しも崩さず、最後の最後まで粘り強く戦い抜いたことは、まことに驚嘆すべきことであった。

 かくのごとき戦いが可能であったのは、ひとえに主将たる栗林の存在による。栗林は鉄石の信念のもとに巧みな戦略戦術を駆使し見事な統率力を発揮して米軍を苦しめ抜いた。栗林は部下を厳しく徹底的に鍛え上げたが、同時に彼らを深く思いやり苦楽を分ち合った。部下はこうした栗林に絶対的信頼を寄せ、この人の下に命を惜しまじと心服していた。まことにも栗林は将帥として傑出した人物であった。

 「公論は敵より出ずる」というが、硫黄島攻略軍司令官スミス海兵中将は、次のように栗林をたたえてやまなかった。

 「わが軍に莫大な損害を与えたのは栗林将軍である。彼はその部下に『最後の一人まで戦え』と教え、特に各人はそれぞれ敵十人を倒すまで倒れるべからずとの訓令を発している。

 彼は知将たるのみならず、鉄石をも貫かずんばおかざる猛将であった。戦闘停止後、戦場で血にまみれ息まさに絶えようとしていた幾多の日本将士にたずねても、そのことごとくが将軍の卓絶した戦術と熱火のごとき闘魂に心酔していたことを語っていた。まことに立派な将軍であった」

 洋の東西を問わず民族人種の壁を超えて、真に武人の魂をもつ者は栗林のごとき人物に脱帽せざるを得ないのである。不撓不屈の勇気と闘魂をもって祖国のために自己を捧げて戦い抜くことは、いかなる国の人々の魂をゆさぶってやまぬものがある。敵将をしてかくまでいわしめた栗林であったからこそ、米人は第二次大戦中の十人の名将の一人として栗林を選んだのであった。

 

◆日本を亡国より救った硫黄島の戦い

 二万名の日本軍が玉砕した硫黄島の戦いはいかなる意義を有したであろうか。それとも全く無益な戦いであったろうか。

 日本軍を上回る損害を出した米軍の打撃は物理的にも精神的にも甚大であった。この戦いが長びいた結果、沖縄戦の開始が遅延した。沖縄戦もまた硫黄島以上の苦戦に陥り、米軍は三ヶ月もの日時を費して占領したがやはり膨大な犠牲を出した。上陸軍十八万中損害は実に七万にも及んだ。

 硫黄島の戦いと続く沖縄戦において、日本軍が玉砕して最後まで戦い抜き、米軍に莫大な損害を与えた衝撃ははかりしれぬものがあった。この二つの戦いを顧みるなら、米軍は来るべき日本本土進攻作戦においてとほうもない損害を蒙ることが必然視された。

 日本軍は玉砕するまで戦いをやめない。戦局は明らかに日本に不利であったが、日本軍の戦意は微塵も衰えをみせず団結はいささかも崩れてはいなかった。戦争において何より重要なのは士気だが、日本軍のそれは米軍を上回るものがあった。

 日本国内にはまだ三百万もの兵力があった。米軍の計算では本土進攻作戦に五百万の兵力を必要とし、そのうち少なくとも百万以上の損害が予測された。硫黄島でも沖縄でも損害は三分の一を優に超えていた。百万以上もの死傷者を出して勝利したとしても、決してそれは米国民の許容するところではなかった。

 結局、それがアメリカをして日本本土における決戦を躊躇せしめる最大の要因となり、アメリカは当初の無条件降伏要求を引っこめ有条件降伏にきりかえることになるのである。

 アメリカが日本に求めた無条件降伏の眼目は何であったか。非戦闘員たる一般国民数十万を平気で無差別爆撃しさらに原爆まで落して虐殺するようなアメリカが、日本に求める無条件降伏の柱は皇室の抹殺であり、わが歴史伝統の根底的破壊であった。つまり、日本を日本でなくしてしまい、未来永劫アメリカの脅威とならぬ隷属国にすることであった。

 しかし、アメリカがこれを要求する限り、日本は一億玉砕して戦い抜く決意を硫黄島や沖縄で敢然と示した。かくして、アメリカは皇室の存在を暗黙裡に認める条件付降伏に変更せざるを得なかったのである。

 つまり、硫黄島の玉砕が、アメリカの鉾先を鈍らせ日本に対する条件を緩和せしめる要因となったのである。敗北はしたものの栗林兵団の玉砕は決して無駄ではなく、わが国の終戦に大きな貢献をし、辛くも国体を守り抜き、日本を亡国より救う人柱となったと言いうるのである。

 栗林は総攻撃を決意した十七日、部下に最後の訓示を与えたが、その中でこうのべている。

 「諸君の今日まで捧げてきた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦いに敗れたりといえども、日本国民は……諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に涙して黙祷を捧げる日がいつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし」

 

◆今上陛下の硫黄島御訪問

 硫黄島の戦いから四十九年たった平成六年二月、天皇皇后両陛下は硫黄島を行幸啓された。それは同年六月に行われる御訪米を前に、日米両国が戦った硫黄島で亡くなられた方々をぜひ慰霊したいという天皇陛下の強いご希望によって実現したものである。

 両陛下は二月十二日、栗林兵団司令部のおかれた天山にある慰霊碑を拝礼され、水を汲み碑の上に注がれ白菊をお供えになられた。またその場で遺族らにお言葉を賜った。そのあと島を一周され島のあちこちに眠る護国の英霊に対し心からのご慰霊を尽されたのである。

 「先の大戦中の硫黄島における戦いは大洋に浮かぶ孤島の戦いであり、加えて地熱や水不足などの厳しい環境条件が加わり、筆舌に尽しがたいものでありました。この島で日本軍約二万人が玉砕し、米軍の戦死者も約七千という多数に上りました。

このたびこの島を訪問し、祖国のために精根込めて戦った人々のことを思い、また遺族のことを考え深い悲しみを覚えます。今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたものであることに深く思いをいたしたく思います。鎮魂の碑の正面に立つ摺鉢山は忘れがたいものでありました」

 このとき詠まれた御製が次のものである。

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

戦火に焼かれし島に五十年も主なき蓖麻は生ひ茂りゐぬ

    ※蓖麻=唐胡麻の別名、種子からひまし油をとる。

 同じく皇后陛下の御歌

銀ネムの木木茂りゐてこの島に五十年眠るみ魂悲しき

慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ

 玉砕将兵に対する両陛下の言い知れぬ切々たる深いお心がここにある。天皇陛下は栗林忠道大将始め二万名玉砕将兵に対して万感の思いをもって、「精根を込め戦ひし人」と賛えられたのである。皇后陛下のお歌もまた我々の胸を強く打つ。

 さらに今上陛下は翌年七月、東京都硫黄島戦没者追悼式に参列した遺族代表に対して次のようにのべられた。

 「硫黄島の戦いが終って五十年が経ちました。皆さんには七月六日の戦没者追悼式に参列し、この長い年月を振り返られることに深い感慨をお持ちのことと察しております。

 私どもは昨年二月、硫黄島を訪れました。慰霊碑に参拝し、島を巡り、水もなく地熱の高い厳しい壕生活の中で、祖国のために死力を尽して戦った戦没者をしのびました。二万の未来ある命が失われ、今なお一万の遺骨が地下に眠っていることに尽きることのない悲しみを覚え、今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたことに深い思いを致しました」

 陛下はここでも、「祖国のために死力を尽して戦った戦没者」といわれている。栗林は「日本国民は……諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に涙して黙祷を捧げる日がいつか来るであろう」とのべたが、誰よりも今上陛下が皇后陛下とともに栗林ら玉砕将兵の偉勲をかくも賛えられ、その死に涙され、衷心より慰霊の誠を捧げられたのである。そして、こうした思いを体せられて、訪米されたのであった。

 両陛下が硫黄島をご訪問された翌年、衆議院で終戦五十年決議がなされた。それから五年、日本政府は大東亜戦争を侵略戦争であるとし、日本が他国に顔向けできない罪悪を犯した国家であるとして、見るも無惨な卑屈きわまりなき謝罪外交を繰返し今日に至っている。偏向しきった歴史教科書も唯ひたすら自国をのみ非難してやまない。こうした日本政府の屈辱的姿勢の対極にあるものこそ、天皇陛下の硫黄島玉砕将兵への御慰霊である。

 アメリカは強敵日本を敗北せしめ長期の占領統治を行い、日本の弱体化、日本人の精神的武装解除に全力を尽し、大東亜戦争を侵略戦争とするいわゆる東京裁判史観を強要して日本人を洗脳してきた。

 その効果が最も出てきたのが平成の今日である。日本人としての自信と誇りの喪失は青少年のみならず、国家指導者を始めとする大人の方がむしろ深刻である。

 自国の歴史を忘却しこれを軽侮してやまず、偉大な先祖、護国の英霊たちを敬い誇りに思う気持を捨て去ったならば、その国民は間違いなく亡国の民、隷属の民と化すほかはない。

 いま何より大切なことは、自国の歴史と伝統に対する自信と誇りの回復であり、祖国を命がけで守り抜いてきた先人への敬愛と感謝の心をとり戻すことである。今上天皇の硫黄島御訪問、栗林大将ら玉砕将兵への御慰霊は、何よりそのことの大切さを我々に教えている。(完)(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦)

×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。